motowakaの備忘録

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北村森之助が富山中学校を辞職した理由

「とやまの洋画史入門編」図録では、北村が富山中学校を短期間で辞した理由について、当時の旧制中学校で頻発した学生の同盟休校(ストライキ)による全職員の引責辞任のあおりを受けたのではないかと推測しましたが、shakes氏の論文(*1)を拝見して、これが誤りであったことをはっきり認識しました。(*2)ポイントのみ引用するご無礼をお許しください。

  • 師範学校や中学校などの中等学校の教員資格に関しては、やはり「学制」が「年齢二十五歳以上ニシテ大学免状ヲ得シモノ」と定めていたものの、大学そのものがこの時点では設置されておらず、最初から努力目標の扱い
  • 当初は国も小学校教員の確保に追われたことから、中等学校教員免許検定試験の制度化は小学校教員の場合に比べ10年近く遅れ、全国の中等学校で教員の大半が無資格者であるという状況が続いていた
  • 中学師範学科または大学を卒業していない中等学校教員志望者が、検定によって免許を得る道がようやく開けたのは、「中学校師範学校教員免許規程」が布達された明治17年。この規定にもとづいて第一回目の学力検定試験(いわゆる文検)が実施されるのが18年3月

こうした背景のもとで、事件は起きました。

  • 検定試験受験は師範学校教員のみならず、富山県中学校の教員にも課せられたのであったが、当局の強引なやり方が思わぬ波紋を呼び、多くの師範教員が辞職するという事件に発展
  • 19年2月6日付『中越新聞』は、富山県師範学校の保田廣太郎と若林常猛、そして中学校の北村森之助の3教諭が、3月中旬に東京で挙行予定の中等学校教員学力検定試験受験のため、県当局に出京を願い出たことを報じている。(もちろんこれは彼らの自発的な申し出などではなく、当局からの圧力によるものであったことは言うまでもない)
  • 16年7月6日に公布された「府県立師範学校通則」は、師範学校の教員中に少なくとも3人は中学師範学科または大学の卒業証書を有する者を任用すべきものと定めると共に、それまで無資格で教えていた師範学校の教員については、中等教員学力検定試験受験による免許取得を可能にした。(この試験は第1回目が18 年3月に実施されていたが、この時は富山県師範学校からの受験者はなかった)
  • 教員学力検定試験が目前に迫った2月下旬、突如富山県師範学校教員の集団辞職事件が起きた(このあと数年間にわたって、師範学校教員の指導力あるいは教員資格の問題を巡り、同校は厳しい世論の批判に晒され、激しく揺れ動き続けた)
  • この事件の起こった時期を考えれば、背景に師範学校のベテラン教員たちと学校当局の間での、学力検定試験受験をめぐる深刻な対立があったことは明らか
  • 学校・県当局としては、まず彼らを説得して受験させることができれば、他の教員に対する模範となると考えたのかもしれない。だが、こうした芸術家肌の人々にとっては、いくら試験には容易に合格できるとしても、教員免許を持たなければ教える資格がないなどという言い草は、まったく許し難いものに感じられたことであろう。
  • 富山県師範学校にとって、明治19年という年は創立以来最大の危機に瀕した年であった。この年だけで実に延べ13名もの教員が退職。(結局、富山県師範学校の教員でこのときの中等学校教員学力検定試験を受験したのは、保田廣太郎と若手雇教師の浅尾重敏の2人だけであった。)

ここで辞職の理由だけでなく、実はもう一点、訂正すべき事項があることに気付きました。これまで北村の富山中学校在任期間を明治17年7月から郷里の岐阜県師範学校に転任する21年3月までとしていた(*3)のですが、上記の経緯を考えると19年2月に辞職していたと考えるほうが自然なように思われます。
以上のことをもとにして、先に掲載した北村森之助の略歴を訂正することとしました。shakes氏の論文からは当時の県内教育事情について、大変多くのことを学ばせていただきました。ご教示に心より感謝申し上げます。

補記 「文検」について

北村森之助が富山中学校を辞職するきっかけとなってしまった中等学校教員免許検定試験制度(いわゆる「文検」)は、皮肉なことに、その後の富山県の洋画史の中で、あたかも「一人前の画家の証」であるかのごとくに扱われることになります。
昭和16年に県内在住の作家としてはじめて文展洋画部に入選したのは川辺外治(1901〜1983)でしたが、彼は昭和5年にこの制度によって中学校教員の免許を取得していました。彼を模範とする県内の青年洋画家たちは少なくなく、県外の美術学校に進学することが難しかった彼らの間で、「文検合格」が画家のステイタスになっていったことは自然な流れでした。(*4
ちなみに北村の後任となった矢野倫真も、富山中学校に赴任してきたときにはまだ教員免状は持っておらず、彼がそれを手にしたのは富山を去った後の明治26年でした。(京都府画学校は専門学校扱いのため、卒業しても図画教員の免状を手にすることはできませんでした。)

*1:SHAKES' Tables 「研究ノート:私立富山英語学校について」

*2:『富中富高百年史』などで曖昧にされていて、釈然としなかった部分への解を見事に与えられた思いがして、少し興奮気味に書いてしまいましたが、文検を巡る騒動が北村森之助らの辞職のきっかけになったとする考察は、まだ富山県教育史上の定説となっているわけではないというご指摘をいただきました。そのとおりです。ここで書いたことは、当面私の自己責任において、この説に説得力を感じたということでご理解を願います。

*3:金子一夫『近代日本美術教育の研究―明治時代―』の記載による。ただし金子先生も北村の在職期間は「別の勤務校に出した履歴によって補正」としておられました。

*4:これはしばしば人材難に悩んだ富山県の教育界の裏返しの面があるかもしれません。戦後になって富山県の洋画家たちの活動が活性化していったときに、その主流を形成したのは、東京美術学校卒の赴任教師たち以上に「文検合格」組の画家たちでした。「とやまの洋画」の文化風土を考える場合に、この「文検」というのは重要なキーワードになります。他県において同様の事象が見られるのかどうかについてはよく分かりませんが、「文検合格」ということを本県ほど重要視して語る例は、今までには見聞したことがありません。