motowakaの備忘録

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「富山油画会」について(明治19年の新聞記事より)

前の記事の続きです。なおこれらの内容については、富山県立近代美術館企画展「とやまの洋画史入門編」(2005年)図録にも掲載されています。

中越新聞』明治19年4月19日付 記事

○洋画研究会 北村松仙氏等の発企に係る同会へ加入する者少なからず、追々(おいおい)隆盛に赴く兆候あり。今、その規則を得たれば、掲げて以(も)って、加入せんと欲するものに示す。

洋画研究会規則

第一条 
一 目的 本会の目的は画学の蘊意(*1)を極めて、之を実用に施し、以って工芸の基礎を定むるにあり。
第二条 
一 会名 本会を洋画研究会と名づく。
第三条 
一 会員 本会員を分かって、通常会員及び小集会員の二種とす。通常会員は、官吏、教員、生徒、農工商を■(*2)せず、いやしくも洋画に篤志にして彷事その道に経歴ある者に限る。
小集会員は何人を問わず工業美術を修めんと欲し、あるいは官公立学校に入学せんと欲する者のために、応用の画学課を教授するものを云う。
第四条 
一 会日 本会は毎月一回宛と定め、第二日曜日をもって開会するものとす。
ただし臨時集会等は部長の宅に開くことありといえども、小集会は会日及び会場を設けず、会員の適宜に任し、各自輪番をもって自宅に開会するも苦しからず。
第五条 
一 会場 会場に、当分油画会場をもってこれを充て(総曲輪楽只苑)、臨時展覧及び臨時集会等はその都度報告すべし。
第六条 
一 集会 毎月一回、通常員、小集員の別なく、自己の製画を携帯して会場に陳列し、会員互いにその巧拙精粗を討論し、しかる後、品評を部長に請うべし。
第七条 
一 規約 本会員は通常員、小集員の別なく、機械、筆、紙、粉本等、すべて自弁たるべし。とりわけ粉本はなるべく写生を主とす。
ただし小集員にして赤貧なる者には臨時粉本を貸与するとあり。
第八条 
一 会費 本会を賛成するものは、最初入会費として金一円を納め、爾後、毎月二十銭を納むべし。
ただし小集会員は毎月会費のほか、さらに三十銭を納むべし。
第九条 
一 画学過程 本会を賛成するものは、左の科目を研究教授す。
一 鉛筆画。チョーク画。擦筆画。木炭画。水彩画。セビヤ画。絹画。油画。石版画。幾何画。投影画。透視画。画歴史等。
第十条 
一 展覧 本会■(*3)一年四回洋画大展覧会を開き、平日描くところのうち、最も完全なるものを集めて衆人の縦覧に供すべし。

補足

この規則では、まず会の目的を「画学の蘊意を極めて、之を実用に施し、以って工芸の基礎を定むるにあり」としています。当時、洋画は今で言う「芸術」の感覚ではなく、かなり徹底して「実学」として認識されていました。また、ここで言う「工芸」は「工業」と同義で用いられていると思われます。
第三条では「あるいは官公立学校に入学せんと欲する者」が会員の対象に加えられています。
shakes氏のご教示に拠れば、明治18年9月に設立されたが、わずか3年余りで姿を消してしまった富山県内最初の受験予備校、私立富山英語学校でも「画学」が教授学科に挙げられており、これについてshakes氏は「私立中学校の設立を目論んだというよりは、東京大学予備門以外の多様な専門学校への受験対策を想定したものであろう」「その講師は師範や中学校の教師ではなかったか」と推測しておられます。(*4)この富山油画会設立とほぼ時を同じくして、明治19年4月10日に公布された「中学校令」によって、富山県内の教育界に間もなく激震が走ることとなる経緯をshakes氏は克明にたどっておられますが、このことが「富山油画会」に与えた影響も大いに考えられます。
富山中学校で北村の後任は矢野倫真、師範学校で森屋の後任は三輪幸之助。両者とも京都府画学校西宗を卒業した人物。矢野は後の在任地である岐阜で最初の洋風美術団体「岐阜洋画研究会」の会頭を務め、三輪は富山の後に第三高等中学校(京都)助教授に任じられた人材でした。新たな核とすべき人物はいたはずなのですが、この「富山油画会」がその後どうなってしまったかについては、残念ながら不明です。「実学」を重んじる富山の県民性も大きな影響を与えたことでしょう。
東京にて、米人フェノロサ日本画保護、洋画排撃を訴えた『美術真説』を講演したのは明治15年。当事“お雇い外国人”によるこの講演は絶大な影響を及ぼして、明治10年代後半からの約10年は「洋画の受難期」とされています。富山ににわかに訪れた洋画ブームは、実は遅く来すぎた春であり、収穫の秋を迎えることなく、冬の時代に戻ってしまったのだったかもしれません。

*1:奥義の意

*2:一字判読不可

*3:一字判読不可

*4:SHAKES' Tables 「研究ノート:私立富山英語学校について」