安岡信義
この略歴は、磯江哲昭氏による「色と光を求めた画家 安岡信義」(『郷土と博物館』第39巻第2号 平成6年 鳥取県立博物館)の内容を基にして編集しました。富山での業績についての調査が行き届いておらず、恥ずかしい限りですが、今後でき得る限り補記・追記をしていきたいと考えています。
安岡信義(やすおか・のぶよし 1888-1933)
1888(明治21) | 0 | 鳥取県鳥取市生まれ |
1907(明治40) | 19 | 鳥取県第一中学校を卒業。東京美術学校図画師範科に入学。 |
1910(明治43) | 22 | 図画師範科第一期生として卒業。島根杵築(きつき)中学校に勤務するが、2年あまりで退職。 |
1913(大正2) | 25 | 再度上京し、本郷洋画研究所(*1)や母校等で恩師小林万吾や岡田三郎助の指導を受ける。8/10〜10/18には伊豆・伊東に滞在し、住民をモデルに制作。(*2) |
1916(大正5) | 28 | 8月〜10月、郷里鳥取の大山に登山、お茶の教本を写本。 |
1917(大正6) | 29 | 8月、山陰地方を写生旅行。 |
1918(大正7) | 30 | 7月と10月、島根県の枕木山でスケッチ。8月、長野県の常念嶽、槍ヶ嶽でスケッチ。(*3) |
1919(大正8) | 31 | 新潟県卷(まき)中学校に赴任する。相馬御風(*4)との交友がはじまる。 |
1920(大正9) | 32 | 4月、富山師範学校に赴任。上新川郡浜黒崎村(現 富山市)泉福寺内に転居。8月、鳥取で筧りつと結婚、富山市西田地方213に新居を構える。 |
1921(大正10) | 33 | 7月、長女ゆりが生まれるが、翌年7月に亡くなる。その後4人の子どもが生まれるが、次男をやはり早く亡くす。 |
1927(昭和2) | 39 | 富山県美育協会を結成、以後例年会員の作品を展観する美術展を開催。 |
1930(昭和5) | 42 | 美育協会主催「フランス美術展」を富山商品陳列所で開催するのに中心的な役割を果たす。 |
1933(昭和8) | 45 | 3月31日、脊椎カリエスのため富山市西田地方町にて没す。この年、富山県師範学校美術部および富山県美育協会の主催により「故安岡信義氏遺作展覧会」が開催され、184点を展示。 |
東京美術学校図画師範科は、師範学校、中学校、高等女学校の図画教員養成のため、安岡が入学した明治40年に新設された。修業年限は3年。岡田三郎助(教授)が西洋画と図案、小林万吾(助教授)が西洋画を担当した。
磯江氏の調査と考察に拠れば、当時の図画師範科の生徒は、毎月6〜7円を学校から支給されており、その条件として「文部省令第19号」により「東京美術学校図画師範科卒業者ハ卒業証書受領ノ日ヨリ五箇年間図画ニ関スル教職ニ従事スル義務ヲ有ス、但シ最初ノ二年間ハ文部大臣ノ指定ニ従イ奉職スル義務アルモノトス」という服務規程を課せられていた。この期間中に職を失った場合には支給された学費を償還する義務が生じたとの事である。
卒業後、最初の二年余りは義務付けられた教職に従事したが、安岡はいったん教職を辞しており、東京に留まって画家としての自分の可能性を極めたい思いと、父母を養い家を護らねばならぬ思いとの間で揺れた、若き画家の苦悩が偲ばれます。なお磯江氏は安岡の日記を調査し、安岡が画業研究に専念する期間を「30歳まで」と、自分で決めていたと記しておられます。