motowakaの備忘録

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追悼・鶴谷登先生

403 Forbiddenより

鶴谷登氏(高岡)が死去、66歳 独自の抽象版画確立
2007年01月08日

洋画家の鶴谷登(つるたに・のぼる)氏が七日午前二時三十六分、心筋梗塞(こうそく)のため高岡市民病院で死去した。六十六歳。自宅は高岡市伏木本町一七ノ二〇。通夜は八日午後七時、葬儀は九日午前十時からいずれも高岡市広小路の高岡シティホールで。喪主は長男、学(まなぶ)氏。
金沢美大を卒業した昭和三十八年に渡米し、ポップ・アート全盛のニューヨークでシルクスクリーン技法を習得。フィラデルフィア・プリントクラブ展でジョージ・ロス賞などを受賞し、四十四年に帰国。富山を代表する「15人展」や「5人展」で活躍した。
帯状に色彩を刷り重ね、人間心理の葛藤(かっとう)や自然のエネルギーを感じさせる独自の抽象版画を確立し、県美術界をリード。平成十四年の第三回北日本美術大賞展で特別賞を受賞した。
県洋画連盟委員長、県美術連合会長などを歴任し、国際美術交流展の開催や、第一回「美の祭典 越中アートフェスタ2006」の立ち上げなどに尽力した。平成三年に県文化功労賞、昨年は地域文化功労者文部科学大臣表彰を受けた。

鶴谷先生には、いつも大変親しくお声をかけていただきました。昨年、「越中アートフェスタ」のオープニングの後、県民会館の裏(野外)の喫煙コーナーで一服していると、愛煙家の先生もお出でになり、「ようやくオープンできた。美術館の人たちにも協力してもらえたおかげで、いい展覧会にできた。ありがとう。」とおっしゃっていたのが、最後の会話になってしまいました。あれは県がやっている展覧会なので、先生がお礼を言われるのは本当はおかしいのですけれど、さまざまな紆余曲折を経て、ようやく開幕を迎えることのできた展覧会の、ある意味“言いだしっぺ”のような役割を担わされてしまったことで、責任感と、はかり知れない心労を感じておられたのだなぁと、胸が詰まる思いがしたことを思い出します。あの時、思うままに「ですが先生、本当は、二年目からが大変なんじゃないでしょうか」と申し上げてしまったのですが、そのバトンは後に続くものたちが引き受けねばならぬことになってしまいました。
鶴谷先生の回顧展は、平成14年に福光美術館で開催されたものが一番大きなものだったでしょうか。今、手元にその図録を広げると、「40年前の想い出」と題して1960年代に、富山の作家としていち早く、アメリカ留学をした体験記を綴っておられる記録が目に飛び込んできます。今日の画学生からは隔世の感があるだろう、努力と奮闘の日々の記録です。
先生は、ともすれば“抽象ちゃ、分からん絵のことやろ”、“版画ちゃ、油絵より一等下のもんやろ”に終始してしまうようなこの地方で、そうした偏見や蒙昧への不平不満を口にすることもなく、地道に、真摯に、本当に粘り強く郷土の美術の発展に尽くされた方であったと思われます。
本当にいろいろお世話になり、ありがとうございました。先生のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。