motowakaの備忘録

毎度ご無沙汰いたしております

和歌山県立博物館施設の機能強化

和歌山県では、知事の肝いりで「博物館施設の機能強化」ということを言っているようですが、ずいぶん学芸員に対して厳しい内容であるのが気がかりです。
ようこそ知事室へ 知事記者会見 平成25年10月22日 | 和歌山県ホームページ

問題意識は、2つありまして、1つは、あまりはやっていない、というところがあるわけです。これは、やっぱり問題があるかもしれない。あるかもしれない問題は2つあって、1つは、企画がほんとに正しいのか。例えば、博物館の学芸員が自分の好みだけで企画をしていないか。それからもう1つは、宣伝広告。そういうものがですね、十分ではないのではないかと。こういう問題意識が一方であるわけです。もう1つは、博物館の人材が正しくはまっているかどうか。和歌山県は、毎年、今は少なくなりましたけど、100人くらい採用しているわけです。その中には、幹部になって活躍している人もいるし、それほどでもない人もいる。これはまあ、しょうがないと思うんです。ところが学芸員という職種は、少ししか採れないんです。1回採用して、失敗したかなということになっても、30年間は博物館の分野で、その人の専門分野のレベルを落とすということになるわけです。したがって、そういうことにならないようにしないといけない。例えていうと、フィールドワーク等あまり興味のないような自然系の学芸員とか、あるいは、標本等に興味のないような学芸員とか、そういう人は大学では良いかもしれないけれども、例えば、レベルの高い学問をして本も書くとかいう点では良いのかもしれないけれど、博物館には向きません。したがって、そういう方が採用されないように、また、採用されたときには、それを自浄できるような制度を作っておこうというのが2つ目の問題意識です。

失礼ながら、お話が分かりにくいです。

  • まず「はやっていない」(=入館者数が少ない?)ということが問題の第一点で、その原因も2つ。
    • 入館者数の少ない原因の1つ目は企画が正しくない=「学芸員が自分の好みだけで企画をしていないか」という疑惑。(根拠は特に示されていない。)企画内容の公益性というべきでしょうか。
    • 入館者数の少ない原因の2つ目は「宣伝広告不足」。あっさりした話。
  • 第二の問題点は博物館の人事制度らしい。一言で言えば「学芸員の資質」。
    • さほど優秀でない人材を採用してしまった場合に、一般県職員であれば幹部に登用しなければよいだけだが、学芸員の資質は博物館活動の一分野のレベルに直結している。
    • したがって、仮に研究者として優秀であっても博物館活動には不向きな人材を雇用しないような選考制度と、採用後も資質次第では博物館活動の現場から遠ざけることの可能な人事システムが必要。

博物館活動における学芸員の重要性を、かなり高く評価いただいている(幹部職員の登用と同じぐらい重要ともいえる)とも取れる内容です。
欧米の博物館での「キュレーター」というのは、日本の「学芸員」とは違い何人もの部下を持ち、重い職責と引き換えにそれなりの処遇を(それこそ年齢不問で実力に応じて)得ているとよく聞きます。わが国の「学芸員」たちは少数精鋭で、実は個々に重い職責を担っていることを行政トップが認めてくださったわけです。その点はすばらしい。
しかし、言うまでもなくわが国の「学芸員」たちの処遇は、幹部職員クラスのそれなどではないわけです。研究のための予算削減の激しい昨今、業務に必要な専門書などもしばしば自費で購入しながら、一般職員と同じ処遇で仕事をしてきていますが、幹部職員クラスの処遇を要求したことなど、聞いたことも当然ありません。
欧米でのキュレーターに相当するのは、わが国では館長クラス(つまり幹部職員)です。
「入館者数が少ない」という第一の問題に対しては、まず「企画内容の公益性」を確保するため、しかるべくシステムを整備するという対策が示されています。これは端的には、県が幹部職員として登用したはずの、館長のマネージメント能力の問題ではないのか、と思います。次に「宣伝広報不足」を解消するために全庁的な取り組み体制を作るという対策は、まあ結構でしょう。ただし、そのために教育委員会は不適で、知事部局の各課がよいという判断には、社会教育施設としての博物館の位置づけを軽視している懸念があるので、その点への十分な配慮が望まれます。外部評価制度の導入に際しては、そういう視点もしっかりと取り入れていただきたいものです。
学芸員の資質」をいかに確保するかという第二の問題に対しては、まず採用時の選考に館外の人物も加えて厳重に適性を見極めるほか、年齢制限を外すというのは、すでに実績のある人材を連れてきたいということでしょうか。次に採用後の職員も定期的に査定するとのこと。必要に応じて外部で研修というのは、上手に運用すればよい制度になりそうですが、一方で査定とセットにされると懲罰的に用いられるという懸念はあります。
学芸員の配置分野の適正化」として言われていることは、博物館活動の守備範囲を広げていきたいので、自分の専門分野にこだわる学芸員は不要だという趣旨に読めます。これは博物館活動の方向性について、館内で自主的に決めていくのではなく、行政側の決定を優先せよということでしょうか。「言うことを聞かないやつは首を挿げ替えるぞ」という方法論は、社会教育施設としての博物館のあり方を定めた博物館法の考え方からすれば、望ましい行政との関係とは言えなさそうです。「学術研究員」というのは従来は学芸員補などと言われてきたものに近く、人員不足を補うのであれば評価できますが、「臨時雇い」とされている点はむしろ非正規雇用に置き換えていくツールともされかねず、懸念されます。
県政の中で文化を重視していきたいので、博物館を機能強化していきたいという趣旨はとてもよいことだと思います。
ただ、学芸員の職責の重さに見合わない処遇の低さというバランスの悪い状況を度外視して、その職責だけを厳しく問う運営を推し進めるなら、求めているような優秀な人材を確保できるのか、疑問は残ります。たしかに、大して処遇がよくなくても、学芸員になりたい人は大勢いるでしょう。しかし、とりわけ地方の公立博物館で、地域に根差した博物館活動を展開していくためには、その地域の歴史や風土に愛情をもって地道な研究に取り組んでいく学芸員を、丁寧に育てていくような、博物館の職場環境が極めて重要だと思います。
そうした館全体のマネージメントについては、個々の学芸員の資質を問う以前に、館長などの幹部職員の管理能力こそがまず重要視されるべきであり、望ましい博物館活動のあり方について、外部の見識者の意見も採りいれながら、博物館の自主性も十分に重んじて、丁寧な話し合いを重ねていくべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

「アートのカジュアル化」

今日こそはあちこち行くつもりだったが、持病の群発性頭痛に襲われて、身動き取れず。
勉強も手につかず。
「アートのカジュアル化」ということが、ふっと頭をよぎる。
違和感は間違いなくあるのだ。しかしその立場は圧倒的に劣勢だ。
「そんなものは!」と頑として認めず、だまくらかして強行突破を図るという強気の考え方もある。
だが、それでいいのか。対話の必要があるのではないか。
本質的な洞察が必要なように思えるのだが、考えている余裕がないぐらいに現実が矢継ぎ早に押し寄せてくる。
自分に何ほどのこともできないことはわかっていても、流されるだけの生き方をしたくないという程度には、まだ青臭さを捨てきれないようだ。

県内さまざまなジャンルの文化人の「県立美術館」への視線

私のHappy Life アート ~ 県立美術館コレクションから ~ - 大分県ホームページ
大分県立美術館の推進局のウェブサイトはけっこういろいろ発信していて、興味深いことが多い。
しかし、この企画は美術館側の主導というより、新聞社側の主導のような気がする。
著作権料のことをあまり考えずに収蔵作品の図版が使えるのは、うらやましいなぁ。

シンポジウム「進化する美術館」の後日談

「先日のシンポジウムのことで話が聞きたい」というお客様がいる、と受付に呼ばれ…。
http://www.pref.toyama.jp/branches/3042/home/diary201308.htm#aug15

「何だろう?クレームかなぁ…?」とおっかなびっくり出て行ってみると。抄録が掲載された昨日の北日本新聞を持ってきておられて、青柳長官の言われた「サステーナブル」な美術館とはどういうことか、「ハレとケ」というのはどういうニュアンスで言われたことなのか、などといった大変マジメな質問でした。

たしかにあれだけの時間をかけて話した内容を、1枚の紙面に圧縮するのは至難の業。さすが新聞記者さんは上手にまとめられると思いましたが、細かなところはさすがに伝わらない。


「サステ−ナブル」とたしかに青柳先生は発音しておられて、イタリア風に発音するとそうなのかなぁと思ってましたが、私が聞いたことある言葉で言うと「サスティナブル」のほうかな。まあ持続可能という意味で、近ごろのはやり言葉的には「サスティナブルな社会」というように地球環境なんかとからめて使われることが多い気が。でも、青柳先生がその日言われたのは、美術館を建てるときにたいていは目いっぱい頑張って中身を詰め込んで建てちゃうんだけど、できれば「曖昧」な性格の空間を残しておいて、10年後、20年後に備えておくほうがいい。そんな意味で「サステーナブル」ということは言っておられたような気がします。


もうひとつのほうは、なかなか難しい話。
佐藤卓先生の「デザインあ」がよかったのは、「日常」をテーマとしたところだったという話が前ふりとしてあり。
「美術館の敷居が高い」と言われる問題のひとつの解としては、そのように美術館を日常(生活空間=ケ)と地続きの場にすべきだという考え方がある。しかし一方で、非日常性(異空間としての美術館=ハレ)も大事だという相矛盾する話。
このへんのニュアンスなり兼ね合いなりは、大変難しいところ。
しかしだからこそ、改めて、面白い話だったなーと。当方の段取りはよくなかったのですが、NHKの中條誠子さんの司会進行がもう、すばらしいのなんの。
あれ、事前に想定されていたシナリオの10倍面白かったですから。間違いない。
大変ためになるシンポジウムでした。

自問自答

いろいろ“権威的なもの”から感覚を自由に解き放つ楽しさを知ってもらう。
美術館とは、そんなところだと思って仕事しているが、
けっこうな数の人が、むしろ“権威的なもの”を求めてやってくる場でもある。

そういう権威志向の強いひとを相手にしないというストレスフリーなやり方は、
お金持ちが趣味的にやってる私立の美術館ならありなんだろうと思うけど、
市民やら県民やら国民やらの税金でやりくりしてる公の美術館ではそうもいかない。
(権威志向の強いひとは、たとえばいわゆる“上流”のひとにはむしろ少ないのだ。)

さて“権威的なもの”を求めてやってくるひとたちに、
“権威的なもの”から感覚を自由に解き放つ楽しさを知ってもらう。
これ、なかなかの無理ゲーだったりする。どうすべきなのか。

「“権威的なもの”から感覚を自由に解き放つ楽しさを知ってもらう」という
チャンネル一つしかないのが問題なんだろうか。
いや、まあいろんなチャンネルは用意してるんだが。
最終的に伝えない内容は何かと言われれば、それ一つしかないって話だ。

「いろんなニーズがあるんだから、それぞれに満足感を与えるのがサービスというものだ。」

はてさて。自問自答。

太閤山ビエンナーレ2013 来場者の意見から

太閤山ランド内の各所で、富山の元気な作家たち50人が意欲あふれる作品を発表した太閤山ビエンナーレは、8月31日で好評のうちに初回の幕を閉じた。作家たちの手づくりによるこの展覧会は、もちろん展示内容も優れていたが、来場者アンケートでは「大変よい」「よい」が約9割に及ぶ支持を受け、自由記載欄にも鑑賞者の想いが多く書き込まれた。
予想された「駐車場から遠い」「暑かった」という反応はごく少数で、「すばらしい」「感動した」という強い支持が圧倒的だ。「個性的」「発想に驚く」という感想も多く、作家たち自身が一番やりたいかたちを工夫し、意欲作をのびのびと発表したのがよかったのだと思う。口コミでの来場者が多かったが、世代や表現ジャンルがこれほどに幅広いグループ展での未知の作家との新鮮な出会いを喜んで、何度も足を運んでくれた例が少なくなかったようだ。「場所をゆったり使って飾られているので作品のよさが生かされている。一人の作家が複数、あるいは大作を出品しており、作風が分かる。初めて見ていいなと思う作品もあり、県内で活躍している人がよく分かり面白い」という要を得た感想もあった。
多くの人たちが県内の作家たちの制作を身近なものと捉え、同時代の中で真摯に自分の表現を追求している姿を、共感をもって見てくれている。「すばらしい」に劣らず、「楽しかった」「面白かった」という感想が多かったのもうれしかった。越中アートフェスタなどの成功もあり、当地の人々の間では少しずつだが、「わかる」「わからない」ではなく、「作品との出会いを楽しむ」ことが広まってきている印象がある。それこそはアートが人々の心を豊かなものにしていく今日的な意義だ。
もちろん「前衛的なものが多くてよく理解できない」という意見も少数あったが、例えば「近い。そして親しみやすい。最後にわかりにくい。でも楽しい作品でした」などは、本展の感想としてはむしろうれしい内容だ。太閤山ランドという気取らない場所もよかった。現代アートのグループ展は、しばしば地域おこしを兼ねて遠隔の地で行われることが多いが、それを目当てに行くのはもともと美術好きな人だ。たまたま見た人が多かった今回の展覧会によって、作品のエネルギーから「なぜこのような作品を生み出したのだろう、何を思って作ったのだろう」と触発され、「既成概念にとらわれず感性を柔らかく生きることを感じました」との感想を見れば、それはもう無上の喜びだ。
もちろん反省点もある。第2期からはじめた来場者アンケートは最初からすべきだったし、出品作家によるギャラリートークも第2期から取り組んだが、「作品に対する思いが伝わってきました」という感想を読めば、作品をただ発表する以上のことを考えねばと思う。「キャプションに材質技法を」という声も相当数あったし、作者のコメント、プロフィールが欲しかったという要望も多かった。作家は作品こそが根幹だが、作品に接して「もっと知りたい」思いを抱いた人たちは、作家たち自身の想像よりずっと多かった。せめて出品目録ぐらいは作成すべきだった。
「空間の高さを生かした展示、作品がもっとあっても」「屋外展示がもう少しあっても」「もっとキャンバスからはみ出た作品に出会いたい」など、さらに意欲的な発表への期待や、広報不足という指摘、毎年開催してほしいという要望も少なからずあった。この展覧会はビエンナーレと称した通り今後2年ごとに開催していき、自分たちが発表したいと思える場をみずから作っていくため、5回10年は続けるという覚悟だという。もちろん一度で果たせる望みではないが、世代やジャンルを超えて集まった作家たちが、いい会場を作り上げるというただひとつの目的に向かって意見を交わし協力しあい、その熱意が観衆にも伝わる好結果を呼んだ体験は、この地域の美術状況を活性化していく確実な第一歩を刻んだ。今回の手ごたえをしっかりと味わい直し、次回のさらなる飛躍を期待したい。

太閤山ビエンナーレ 第2期+第3期 アンケート集計結果