motowakaの備忘録

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「清原啓一回顧展 新花鳥画への道程」―時代を映す装飾性

まさにこの稿を書いているさなかに清原先生の訃報を聞いた。信じがたい思いで胸がいっぱいである。

“群鶏の画家”として知られた清原先生は、実に勤勉な画家であった。

始終動き回って、描くに苦労の多い鶏を画題として半世紀以上。会場には、生涯の画業から選び抜かれた大作八十点がずらりと並び、そのほとんどが群鶏図である。しかし、そこには画家のたゆまぬ試行錯誤のあとが画風の展開として現れ出ていて、何とも見飽きぬ迫力があった。

清原先生の画家としての歩みは、戦後日本の経済発展のうちにあった。こうして眺めた画家の画業の進展に、人々の生活感覚の変化を重ねてみれば、絵画というメディアとは、まさに不断に時代を呼吸しながら息づき続けているものらしい。

戦後間もない初期の画風には、抽象全盛の時代の中で、あえて具象の意義を突き詰めようとする真摯なエネルギーがある。東京オリンピックの頃には、画家に「東洋と西洋の気候風土の違い」への気づきがあって、造形の実験は重厚な群像劇へと重なりあっていった。洋画ならではのテクニックを駆使して描かれた群鶏図が徐々に社会性を帯び、ついには精神性を感じさせるに至る。

そして、そのいかにも洋画らしい重厚な表現から、河北倫明に「油彩による華麗な琳派調」と評された新画境への大胆な転進は、昭和の終わりにさしかかる時代の中で実現されていったのだった。

清原芸術は、群鶏図という、そのきわめて独自の画題から、特殊な事例と捉えられがちだ。だがその画風の変遷は、日本人の生活感覚の移り行きを反映し、同時に、西欧伝来の油絵を日本人が描くことという、日本の「洋画」が抱え続けてきた本源的な課題に向き合うことにも繋がっていた。

飼い馴らされ、飛ぶことを忘れてしまった鳥である鶏は、自然から遠ざかってしまった現代人の姿でもある。ふるさとを離れ、画壇に揉まれながらも、清原先生は故郷の思い出に繋がる群鶏を描き続け、日本人にとっての風土というもの、自然観を追求し続けていたのだ。

この回顧展のために描かれた新作は幅十二メートル弱にも及ぶ六曲一双。その畢生の大作、油絵による屏風はまさに圧巻であり、藝術院会員という立場に甘んじず、最後まで一人の絵かきとして新たな試みを続けたことを裏付ける。ふるさとでの最後の個展に傾けた意欲は、生まれ育った風土への恩返しだったに違いない。先生のご冥福をお祈り申し上げたい。


▽5/24〜7/13 富山県立近代美術館

美術年鑑〈平成21年版〉

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