motowakaの備忘録

毎度ご無沙汰いたしております

啓蒙を二人羽織りする前衛。なるほど、それはしんどいわ

確かに哲学者が議会制と人権(資本主義的な統治)を擁護するようでは知的創造性は望むべくもない。しかし、現代日本の支配原理は近代ではなく植民地的な専制と土俗的な無知のアマルガムであるため、しばしば前衛が啓蒙を二人羽織りしなければならない。

優等生と不良? - nomad68kの日記

哲学のことはよく知らないのですが。現代美術には哲学と同じような問題意識を持つものが多くあります。そうしたものが、この国の社会の中ではなかなか足場を持ちにくいということについて、なるほどそういうことなのかなと、ちょっと腑に落ちたような気がしてメモしておこうと。

  • 哲学者は政治家、弁護士の優等生的な発言の欺瞞、矛盾を批判し、概念を創造する切片でなければならない。そのためには、優等生的な自己完結した世界への緊張を持つ「不良」でなければ
  • 不良が不良でいられるようにするためには、野蛮と無知ではなく優等生が権力を握ればよい

20世紀以降の美術について言うと、ここでいう「哲学者」の立場と現代美術のアーティストのそれはほぼ同じだと思います。
現代の諸問題を考えるうえで近代批判は必要。今日の日本には近代の矛盾に起因する問題だらけ。
ただ、この国の「近代」は端的に未成熟。ニュースを見ても、…それに近ごろはインターネットを眺めていても、「植民地的な専制と土俗的な無知」だらけ。優等生の姿を見かけようものなら「野蛮と無知」がスクラムを組んでつぶしにかかるという世相。

  • 現代日本の支配原理は近代ではなく植民地的な専制と土俗的な無知のアマルガム

ああ、なるほど。そういうことですね。

はてなブックマーク - 作曲家の”嘘”と視聴者の期待 - Ohnoblog 2

ところで、この話題になっている作曲家の話題に触れた記事へのブクマコメントの中で「現代アートでもデュシャンの泉とか制作物ではなくて背景とか物語を売りにしたものがわりとあるような。」という意見がわりと支持されてたりするんですが、白樺派の人たちがゴッホの人生の物語に熱狂したこと(近代)と、デュシャンが美術という制度そのものへの疑義申し立てをしたこと(現代)がごちゃ混ぜなのが、アートをめぐる現代日本の状況なのだよなあ。

「与えられた物語」を消費するのは芸術の鑑賞ではない。自ら感じてほしい。…鑑賞の場に誘うのに「物語」の力は絶大なのだが、実はその人なりの感じ方を封じる呪縛にもなっている。なんとも残念な現実だよね。

その記事に、私は上記のようにブクマコメントしていたのでした。

私の勤務する美術館では、初代館長の方針だったのか、開館当時はかなり原理主義的に「その人なりの感じ方」を求める展示を追求し、個々の作品に対して先入観を与える可能性もある解説文は、なるべく付けないという主義だったようです。(その代わりに、作品配列の順序は20世紀の美術史をなぞるように並べることが強く求められる結果となりました。)
よく言えば理想主義的なそういうやり方は、あまりうまく機能せず、なし崩し的に作品の横の解説文は増えていきました。

先日ある記者の方に、「なぜあなたの美術館の常設展は開館以来、美術史をなぞる配列方法を変えられなかったのか」と問われ、「だってその方が分かりやすいじゃないですか」としか答えようがありませんでした。
目先を変えるというだけの意識からならば変える必要はなかったと今でも思いますが、もう少し本質的な問題として、「近代」が根付いてない場で「現代」を問うことについて深く考察し、手段を検討すべきだったかもしれません。

哲学者は「孤高の存在」であってもよいのですが、美術館はそうではないのだから、「前衛」と「啓蒙」を二人羽織りしながらでも、問題点をよく見極めて、悪循環から抜け出すしたたかな方法論を編み出さねばならないのでしょう。*1

*1:横浜美術館の天野さんの連載の中でも、このような問題に触れた部分がありました。 http://yokohama-sozokaiwai.jp/column/2705.html