motowakaの備忘録

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深遠なる幻視―森弘之の絵画の魅力


《越の凾人(こしのかんじん)》―辞書によれば、「凾人」とは具足師(ヨロイを作る人)のこと、「凾」とは箱(あるいはヨロイ)のことである。画題の絵解きを自らのタブーとしていた森弘之の、不可思議な魅力に充ちた幻想的な画業を代表する《凾人》シリーズ。解読不明な何かの記号を刻み付けた絵肌の中で、「凾」に閉じ込められた主人公たちには顔がない。(見せたとしても、それは“仮面”だ。)謎に充ちた森弘之の絵について直感的にはっきり言えるのは、これはただ事ではなく“怖い絵”だということだけである。
このたび射水市新湊博物館との共同企画展として、太閤山ランドふるさとギャラリーで実現した「森弘之展」の企画は、画家が生涯を過ごしたふるさとの博物館に、まとまった遺作の寄贈を受けたお披露目という趣旨でもある。縁あって最晩年の画家に知己を得たものとしては、かねて念願の遺作展を実現できることが無上に嬉しい。森さんは1995年に刊行した画集に、画家としての自らの生の軌跡のすべてを刻みつけ、翌年早々に遠行してしまわれたが、画集の編集を僅かにお手伝いした中で、この画家独自の芸術の凄さを知り身震いしたことを、私は今も忘れられない。
射水市のコレクションは、初期の詩情あふれる風景画、肺結核の闘病を経たのち独自の絵肌で心理の深奥を描き出した心象画、そして代表作《凾人》シリーズを経て、肺がんの発病後、短期間に集中的に描かれた花のシリーズを含む最晩年の作品まで、森弘之の画業の歩みが一望できる内容である。本展では、これに近代美術館の収蔵作品を加えた49点の作品により、森弘之の絵画の深遠なる魅力を紹介する。
幻想芸術批評の第一人者だった坂崎乙郎によって「おおどかでバイタルでユーモラスで昏(くら)く、不思議な性格を示している」(『現代画家論』1975年読売新聞社刊)と評され、その真価を見出されたことで、森弘之の名は全国に知られた。そして「富山県15人展」(高岡市立美術館)で最高賞を得たり、しばしば出品した安井賞展で賞候補となるなど、とりわけ1970年代、この画家独自の幻想的な表現は其界の耳目を集めた。しかし1986年の肺がん手術後は発表から遠ざかり、森は世間の関心の外で黙々と孤高の制作を続けていたのであって、画集の刊行が契機となり、没後の今日ますます高い再評価を受けているのは稀有な例であろう。
その魅力を一言で示せば“深い精神性”としか言い表せないが、作品を見ていけば初期の風景画からすでに、身近な風景の中に漂う寂寥感は濃厚だ。本土上陸する敵にベニヤ板のボートで体当たりする特攻隊で敗戦を迎えた画家は、やがて発病した肺結核と長く闘う中で、幻視的表現へと大きく踏み込む。それは一口には“シュルレアリスム風の心象画”とでも言うしかないが、森弘之は、単に画家個人の心の中を描いたのではなく、例えば、地上の生き物すべてが体内に共有する内宇宙(ミクロコスモス)のはるか遠い記憶を貫き通すような、鋭く深い視線を示したのではなかったかと私は思う。
一枚の絵に納得いくまで、いつまでも描き続けるタイプの画家だった森には例外的に、肺がんの手術を経て作品発表から遠ざかった期間、集中して数多く描かれた花の絵のシリーズは、オディロン・ルドンの系譜に連なるものだ。見上げるような大男だった森さん自らが如雨露を手に育んだ、自家の庭の花。その日常の中に根源的な生命感が揺らぐとき、超常と日常は表裏背中合わせのものだという気づきがそこにはある。そして生命果てる直前まで描き続けた故郷の風景スケッチの数々には、絵画を愛してやまなかった想いを超えて、描き続けずにはいられなかった“画家の業”に近いものすら感じる。
常人になく、はるか遠いものを見据えた森弘之の遺した作品は、説明不要の卓越した魅力をたたえ、畏敬にも似た感覚で評価されゆくべきものだろう。しかし、混沌とする中に生命の温かみも備えたそれは、間違いなく、ふるさとの風土に根ざしたものでもあったのだ。


現代画家論 (1975年)

現代画家論 (1975年)