motowakaの備忘録

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田部英嘉について分かっていることのまとめ

未整理のメモ

以下は、ラフカディオ・ハーンの伝記作者として知られる英文学者、田部隆次が、晩年に口述した内容を書き留めた手記を元にした記載です。一部、未確認の点もありますが、英嘉関係分について、とりあえず記されている通りのことをメモしておきます。

田部英嘉は、富山県上新川郡奥田村(現 富山市)に生まれました。正確な生年は未詳です。
英嘉の生まれた田部家は、田部隆次が、のちに養子となって後を継いだ田部家の分家に当たります。(*1)田部家本家は富山市山王町にありました。田部隆次の岳父は田部家第8代、田部英敏。その先代が田部英愛です。英愛の弟、英貞が田部家分家を興しています。田部家は富山藩士で、英貞は若い頃に前田利保(富山藩第10代藩主)に仕えて側近役を勤めたりもしたそうですが、分家に伴って帰農し、族籍としては「平民」でした。(*2

田部文五郎→→田部英愛(本家)→田部英敏→田部隆次
     ↓
     →→田部英貞(分家)→田部英嘉

英貞は、まだ50歳にもならない頃、明治14年12月10日に亡くなりました。英貞の妻「ゆき」は、英貞が亡くなったときに42歳でした。(*3)英貞とゆきの間に二子があり、長女「やす」は島田家に嫁し、長男が英嘉でした。
英嘉は富山市の岡田呉陽(*4)の漢学塾に学び、結婚適齢期になった頃、杣田家(*5)の娘を娶りましたが、仔細は不明ながら間もなく離縁となり、英嘉は伯父山田家の親戚である渡辺家の娘を再度娶ります。
ところが少年時代から絵が好きだった英嘉は、絵を学ぶために遠く遊学したいと早くより熱望していたようで、「これは許されない」と考え、書置きを残して京都へ走ってしまいます。(・・・というのがどうも、最初の結婚の少し前の出来事であったようで、詮方なく若い当主の出奔を許した母が、とにかく身を固めさせようと考えたのであったかどうか。ともあれこの事件は、漢学の師、岡田呉陽が没した明治18年頃の出来事だったと考えられます。)
英嘉は久保田米僊を保証人として、京都府画学校(明治13年開校)に入学し、洋画を学んだとされます。(*6
なぜ久保田米僊ほどの大家だったのか、にも強く興味が惹かれますが、京都府画学校に入学していたという手記の記載が注目されました。それは先にも記したとおり、英嘉が京都の洋画の草分け、田村宗立の画塾「明治画学館」の名簿にその名を記されていることは分かっていたのですが、『京都市立美術工芸学校一覧』(明治41年)の卒業生の名簿にその名はなく、ゆえに英嘉は、京都府画学校が西洋画科廃止の方針で新入学を打ち切った明治23年以後の、田村の門人なのかと考えていたからです。
事実はそうではなく、入学より3年ほどたち卒業を間近とした英嘉はチフスを病み、明治21年7月30日に残念ながら亡くなっていたのでした。「卒業生」の名簿には、名前がないわけです。
明治21年3月に富山県尋常中学校教師として赴任してきていた矢野倫真の、京都府画学校在学は明治19年から21年2月までですから、英嘉と倫真は、まさに共に学んだ仲だったことになります。(*7

今後の調査

先に記したとおり、先日、田部英嘉の油彩画が現存していることを確認してきました。同時に、このお宅には矢野倫真の油彩画も残されてありました。倫真の油彩画が確認されたのも、初めての機会になるのではないかと思います。これらは非常に貴重な発見であり、いずれ富山県立近代美術館へご寄贈いただけるようにお願いをしてまいりました。倫真については、出身地である金沢の石川県立美術館や、晩年を過ごした岐阜県美術館でも調査しておられることは承知しているのですが、本件に関しては、富山県との縁が非常に濃い話であり、若き明治の洋画家たちの友情を伝えるよすがとして、両作品は併せて一箇所で収蔵されるべき作品であると判断しました。
今後、調査すべきこととしては、英嘉の生年、京都府画学校入学の年などをはっきりできればと考えています。
また、田部隆次の手記は、ラフカディオ・ハーンの蔵書であるヘルン文庫(現 富山大学蔵)関連の貴重な史料ですので、所蔵者のご意向に従い、県史の調査に十分役立つよう、関係者の調査に委ねたいと考えております。

*1:英嘉と隆次の関係については、実のところ、さらに複雑な経緯がありますが、あまりに複雑で整理しきれないので、ここでは措きます。

*2:「田部家には奥田村に何町かの田地があったのを英貞が譲り受けて、それで奥田村へ移住するやうになって、山王町にあった土蔵と家を此所へ移したのであった。それから更に土地を次第に買ひ足して土蔵も一棟新築したのであった」と手記にはあります。

*3:ここから逆算すると、ゆきは天保10(1839)年生まれ、英貞は天保3(1832)年頃生まれでしょうか。

*4:岡田呉陽 文政8年(1825)〜明治18年(1885)
富山藩の藩儒。19歳で昌平校に留学、3年間朱子学を学ぶ。安政4年、藩主に従い江戸へ行き1年間昌平校に復した後、御近習頭、文学兼藩主師範まで勤め、維新後も廃藩までの間、藩政改革に当たった。明治10年、師範学校教諭に就任するが翌年に辞し、清水村に新築した自塾で漢学を講じた。

*5:杣田家は、青貝細工で富山藩に仕えた富山藩士の家でしたが、田部家同様に奥田村に帰農していました。

*6:久保田米僊(べいせん) 嘉永5(1852)年〜明治39(1906)年
京都生まれの日本画家。師は鈴木百年。明治11年には幸野楳嶺、望月玉泉らとともに、京都府に画学校設立を建議。明治19年、京都青年絵画研究会を結成、皇居造営にあたり天井画、杉戸絵を制作。明治22年パリ万博で金賞受賞、渡仏。明治23年、京都美術協会創立に尽力。明治24年上京、日本青年絵画協会に参加。明治26年シカゴ万博に際し渡米、翌27年には日清戦争に従軍し、戦況を報じた。明治30年9月24日、石川県立工業学校(金沢、明治20年開校)教諭として金沢に赴任するが、翌年の11月に辞任。わずか一年余りの在職とされているが、すでに明治24年に久保田米僊著「小学校図画帖」が金沢市安江町の近田太三郎から刊行されるなど、以前より金沢との縁は深かったようであり、また富山県工芸学校(高岡、明治27年開校)の初代校長、納富介次郎とも繋がりがあったと思われる。(藤井素彦氏の指摘。「納富介次郎の画家たち」〔『郷土の日本画家たち』富山県立近代美術館・2002年〕)

*7:さらに奇縁ですが、田部隆次は富山県尋常中学校で矢野倫真に画学を学んでいます。