「富山油画会」について(明治19年の新聞記事より)
(*1)
「とやまの洋画史入門編」(2005年 富山県立近代美術館)の開催にあたり、事前調査として北日本新聞社の協力により、同社の前身である『中越新聞』(明治18年創刊)を調べたところ、明治19年に富山で油画の展覧会が開催されていたことが分かりました。
『中越新聞』[現在の北日本新聞]明治19年4月9日付記事
○油画展覧会 はかねて広告の通り、去る三日を以って当地総曲輪越川楼に開会せり。その略況を記せんに、同楼の入口に一大磁瓶(じへい)を置き、これに百花を乱挿し、縦覧者をして先ず美術の欠くべからざるを感ぜしめたり。それより進んで階梯を攀ず(*2)。階尽きて室あり。之を油画展覧席となす。その陳列する図画の最も欣賞すべきものは、北村松仙氏の筆にて「濃洲藤釣橋の図」、「長良川鵜飼の図」、「富士山遠望の図」、「槙尾秋景の図」、「高雄紅葉の図」、「墨水堤春色の図」(国重正文出品)(*3)、「鴨川上流高野川の景」(前田則邦出品)(*4)、「嵐山夜景の図」(河村惇出品)(*5)、「越中黒部川上流愛本橋の景」(田中貞吉出品)(*6)、「読者欠伸の図」、「南北亜米利加戦争の図」(以上油画)、「美婦裸体の図」、「少婦戯鵞の図」(以上木炭画)、森屋熊夫君の筆にて「晃山瀑布の図」、「亜米利加大統領リンコルン公幼時勉学の図」(以上油画)、「西医元祖ヒッポクラテス氏肖像」(木炭画)等より、その他、天来社員の肖像およそ32枚(皆松仙氏の筆に係る)及び水彩画、鉛筆画、チョーク画合わせて45枚あり。いずれも人目をよろこばしめたり。この室を出て隣室に入れば、すなわち書画揮毫席とす。揮毫者は若林快雪、周世民等なり。また北村氏等が席上にて油画もしくは木炭画を描かれしは、最も縦覧者をして歓喜の情を表せしめたり。この日縦覧者は無慮5千余人にして楼上楼下、立錐の地なかりしは、之を盛会と云うの外なかりき。黄昏に至りて縦覧者を謝絶し、油画展覧席において天来社員および富山油画会員の諸氏を饗応せられ、弊社の土生河尻もその席にあずかるの栄誉をはずかしうせり。それ世人の思想高尚におもむくにしたがうて、美術のますます進捗するは疑うべからざる事実なり。今わが地方にこの会の設けあるは、また以って民度のようやく長進するの兆しなるを知るべし。故にやや椿事に属するに拘わらずこれに記すると云う。
(※仮名遣い等は読みやすいように改め、句読点等を補いました。)
また、この前後の時期の広告等を併せて調査したことにより、肖像画の講座を開いていた「天来社」を解散し、新たに「富山油画会」を設立するにあたって、この展覧会が開催されたという経緯が分かりました。
この展覧会の二人の主役、北村松仙、森屋熊夫(*7)については、別項に記します。
揮毫(今で言えば公開制作)をした人物ですが、若林快雪(天保14〜大正11年)は著名な書家で、当時富山師範学校書道教諭でした。もう一人の周世民は富山に住んでいた中国人画家で、第二次世界大戦前に帰国したらしいと分かりました。
出品作品
文中に記されている作品名をまとめると、下表のとおり計93点(うち油画13点)にもなります。
作者 | 画題 | 出品者 | 区分 |
---|---|---|---|
北村松仙 | 濃洲藤釣橋の図 | - | 油画 |
〃 | 長良川鵜飼の図 | - | 油画 |
〃 | 富士山遠望の図 | - | 油画 |
〃 | 槙尾秋景の図 | - | 油画 |
〃 | 高雄紅葉の図 | - | 油画 |
〃 | 墨水堤春色の図 | 国重正文 | 油画 |
〃 | 鴨川上流高野川の景 | 前田則邦 | 油画 |
〃 | 嵐山夜景の図 | 河村惇 | 油画 |
〃 | 越中黒部川上流愛本橋の景 | 田中貞吉 | 油画 |
〃 | 読者欠伸の図 | - | 油画 |
〃 | 南北亜米利加戦争の図 | - | 油画 |
〃 | 美婦裸体の図 | - | 木炭画 |
〃 | 少婦戯鵞の図 | - | 木炭画 |
〃 | その他、天来社員の肖像およそ32枚 | - | - |
森屋熊夫 | 晃山瀑布の図 | - | 油画 |
〃 | 亜米利加大統領リンコルン公(*8)幼時勉学の図 | - | 油画 |
〃 | 西医元祖ヒッポクラテス氏肖像 | - | 木炭画 |
不詳 | 水彩画、鉛筆画、チョーク画合わせて45枚 | - | - |
明治初期、地方での洋画の状況については不明な点が多いようです。この展覧会について、さらに詳しい内容の分かる資料、出品作に該当するかもしれない作品などが発見されれば、大変貴重な資料になるかもしれません。戦災に遭っている富山でこれらを探すことは大変困難だと思われますが、何か参考になるような情報をお持ちの方は、ぜひご連絡をお願いします。
*1:本稿は、「とやまの洋画史入門編」調査時のWEB上に掲載したテキストを、編集転載したものです。
*2:「攀ず」は昇るの意
*3:国重正文:初代富山県令[現在の知事]。山口県萩出身。在任期間 明治16年5月から21年10月まで。
*5:川村の誤りか。川村惇は富山県師範学校校長。慶応義塾出身。明治19年の教員集団辞職事件により、事実上引責辞任。
*6:田中貞吉:富山県師範学校校長を経て明治18年1月、富山県中学校校長に。山口県岩国出身、岩倉使節団に留学生として同行した逸材。当時まだ20代の若さだったという。
*7:森屋熊夫その他さまざまな内容について、藤井素彦氏[高岡市美術館学芸員]にご教示いただきました。深く感謝申し上げます。