メモ
@ka2saiki: 基礎的な理論や言説が共有されれば、海外の新しい動向をいち早く取り入れて、その情報の格差で成立するような作品や批評は一掃されるだろうし、そのうえで作品が作られ、批評が為されるようになると思うので、より健全な状況になるのでは。
2013-04-07 01:43:41 via web
@ka2saiki: そもそも基礎的な理論や言説が共有されていないから、それを占有することで、共同体間の落差を用いて価値を生み出そうという、遠隔地貿易をする商人資本のようなやり方が生まれて、成立するのだし。
2013-04-07 01:50:40 via web
@ka2saiki: そのような共有が当たり前になったら、ただ「新しい」というだけで発生する価値は意味を持たないものとなるだろう。なぜなら、すでに共有されているのだから。そして、「それでもそれをする」という選択は、何故それをするのかという問いを投げ返してきて、作品や批評に別の価値を問うだろう。
2013-04-07 02:09:04 via web
大学での美術教育における美術理論教育について齋木克裕氏(@ka2saiki)と加治屋健司氏(@kenji_kajiya)のやりとりを中心に - Togetterまとめ
「ああ、自分は勉強不足だな」と思いながら読んでいて、この部分で考え込みました。
美術理論をしっかり勉強したことなどないし、残念ながら、知らなくてもどうにかなってしまうというか、むしろ真面目に勉強することをあまり期待されていない環境に置かれているようにも思います。
まあ、それはともかく。「海外の新しい動向をいち早く取り入れて、その情報の格差で成立するような作品や批評」「基礎的な理論や言説が共有されていないから、それを占有することで、共同体間の落差を用いて価値を生み出そうという、遠隔地貿易をする商人資本のようなやり方」というのは、日本の近代美術史の痛いところを簡潔に言い表していると思いました。
「とやまの洋画史 入門編」の図録で藤井さんが書いていたように、世界の周縁として日本はあって、さらにその日本の周縁として富山というのはあって。
そういうことというのは結局、今日も変わらない問題なのかどうか。
「共有されるべき基礎的な理論や言説」というのは、やはり欧米のそれ…なんだろうなぁ。
それ以外…。たとえば東洋の古典であっても、ただ感覚的にやるのではなくて、自分の中で理論化して、繰り返し検討し続ける努力は必要なんだろう。
ところで上の対話ではグリーンバーグという名前が出てくるけど、普通の人たちと話をしている中では、アヴァンギャルド(前衛)もキッチュ(俗悪なもの)も一緒くたに「ゲンダイビジュツ」でくくられてる。その辺の難しさも感じたりしたのでした。