motowakaの備忘録

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瀧口コレクションについて、今日ある人と話して思ったこと

戦後の日本の現代美術のありように関心を持つ人にとって、ほとんど自明のものである瀧口修造の業績だが、それを門外漢に分かるように紹介する方法は、どのようであるべきなのか。
富山県立近代美術館には、瀧口の書斎に置かれていた内外多くの美術家から贈られた作品のコレクションが収蔵されている。
もちろん、その小さな展示室に最低限の解説文と瀧口の年譜は置かれており、大きな作品はほとんどないが、とても不思議なオブジェたちはそれぞれの物語を内に秘めて、きわめて魅力的だ。
瀧口という人は、「芸術の生まれる瞬間」に深くこだわったのだと思う。
額縁に納められているから「絵画」であるとか、台座に置かれているから「彫刻」であるとか、そのような見方を退けただけでなく、「絵画」とか「彫刻」とか名指された瞬間に逃れ難く付きまとう先入観から、いかに芸術そのものを解放するのかということに、徹底してこだわりぬいた人だったのだと思う。
であるから、瀧口の業績について、くどくどとした解説文を付して語ろうとすることには、大きな抵抗がある。その抵抗感は、大事なものとして心のどこかにとどめ置くべきものだ。
ただ、その考え方を徹底するのであれば、本来あらゆる作品について解説文を付すべきではないということになるまいか。瀧口コレクションだけを例外とすべき理由は何か。
解説文を付したくないのは鑑賞者に、先入観を持たずに作品の放つアウラとじかに向き合ってほしいからだが、なにがしかの既成観念を持たずに作品と向き合える人が実際どれだけいるだろう。
既成概念にとらわれずに作品とじかに向き合うことには、残念ながら多少の訓練がいるのが現実だ。それもまた瀧口コレクションに限ったことではない。
瀧口コレクションというのも、個々にはそれぞれの作家の作品であって、ひとつひとつと誠実に向き合えば、それぞれについて鑑賞者の持つであろう先入観を取り除くためのヒントとしての解説文を付すことは、不可能ではないはずだ。
ただそれが、かの詩人ほどの卓越した感覚を持ちえない平凡な学芸員には困難に思えてしまうのは、「瀧口コレクション」という全体が、瀧口修造という人のひとつの作品というべき性格を持っているからなのかもしれない。
その畏敬に似た思いもまた、大切なものだと思う。おそらくそれは瀧口コレクションに限らず、すべての作品と向き合い、鑑賞者と作品との仲立ちを果たそうとするときに、美術館人がけっして忘れてはいけないものだ。
美術館が作品の墓場となることを、瀧口は危惧した。それを退ける美術館の存在意義があるとすれば、鑑賞者と作品とが出会った瞬間に新たに生まれ出るもの、それそのものが芸術だということしかあるまい。
その一刹那一刹那の出来事を、無限に繰り返す生成の場であり続けること。瀧口の魂の分身であるコレクションを預かる美術館として、偉大な先人への畏敬を常に持ちながら、鑑賞者と作品との出会いをどう仲立ちすべきなのか、思考停止せずに模索し続けていかねばならないと思う。