motowakaの備忘録

毎度ご無沙汰いたしております

「越の祭A」1976年

  • 和紙・アクリル系絵具、水彩絵具 162.0×130.5cm

《越の凾人》―箱に閉じ込められた人物のすがたは、森弘之の画業を代表する題材である。こいつは顔を見せたことがない。いや、たまに顔らしきものが覗いたと思えば、それは決まって仮面のようなものなのだ。この人物もそう言えば、まさに仮面を付けようとしているところにも見える。それに、この何かの記号を刻み付けたような絵肌は何だ?…そして、そもそも箱だ。森弘之の絵は謎に満ちている。これはただ事ではなく怖い絵だ。

昭和20年、旧制中学校を卒業した森は陸軍に志願し、本土上陸する敵に体当たりする特攻艇の部隊で敗戦を迎えた。そして郷里に帰って機械設計の仕事に就く傍らで画業を志し、以後定年までこれら双方を両立する。両立と一言で片づけてしまうが、それは二足の草鞋などではなく、文字どおり寝食の時間を削るようにして、つまりは常人の二人分以上の生き方を、この画家はしてきたようだ。昭和30年代には体を壊して肺結核により長い闘病生活を送る中で、しかし独自の作風を確立。やがて昭和40年代から50年代にかけ、第2回富山県15人展(高岡市立美術館)で最高賞を得たり、また評論家坂崎乙郎に認められて安井賞展で賞候補となるなど、その独自の幻想的な表現は高い評価を得た。けれども、おそらくその時間もなかったのか県内の美術家仲間との付き合いも薄く、昭和61年に肺ガンの手術を行ない作品発表から遠ざかって以後は、結果として「知る人ぞ知る」画家などと言われるはめになる。しかしルドンの晩年を思わせる「花」の連作を開始するなど、平成7年にガンを再発して翌年の元旦に世を去るまで、独自の制作は世間の関心の外で黙々と続けられていた。
坂崎乙郎は森弘之の特質を風土性の中にとらえ、その「おおどかでバイタルでユーモラスでくら昏く、不思議な性格」は、「雪に閉じこめられ家に封じこめられた北国の人の、次第に幻想によってふくらむ内部空間をあらわしている」ことに根ざしているのではないかと想像した*1。また、前田常作は森の作品を呪術的ととらえ、“越の縄文人”は「遥かに時をさかのぼった遠い先祖の“情念”を受け継いでおり」、その作品は「肥大化した欲望社会から魂の解放を求める現代人の“痛み”の叫びの様でもある」と述べている*2
作家本人による自分の作品の絵解きというものはほとんど存在しない。森と親交のあったおそらく数少ない画家のひとり、高岡鉱は「寡黙な大入道」と森のことを回想している*3が、この作家は親しいものにさえ、技法のことは何でも教えても自分の作品の本質に関わる会話は禁じていたのだというのだ。
森弘之は時折見せる鋭い眼光とともに、大きな背中の印象的な人であった。森の画中の人物は(初期の漁港などを描いた風景画の時代から)皆、背中しか見せていないと高岡紘は指摘し、それは「画面に向かって人が入り込んだ証拠」に思えたと述べている。大入道の巨大な背中に入り込み、内側からそのはるか遠いまなざしで世界を眺める想像をしたら、瞬間恐ろしくて震えてしまった。
―そうか、《函人》か。だが、われわれは、気付けば皆、何かの囚われ人ではないのか?

「地方の平凡な街中で、穏やかな家族に囲まれた、ありふれた人生をも一方で暮らしながら、同時にその寸暇を惜しんで、こうした卓越した制作を続けてきました」*4と、かつて見てきたかのように作家のことを書いたことがある。そうして書かずにいられないほど、この作家の画業は孤高で、その生きざまには戸惑いにも似た衝撃を受けたからだ。
大きな背中が去った後には、謎に満ちた絵だけが残された。しかし、絵とは本来そうしたものだろう。昨今、批評家より上手に自分の絵を解説する画家も多いが、本質的なものとは元来説明のできないものだ。この画家の常人になく遠くを見据えた視線の先にあったもの―あの懐かしい大きな背中に、絵を観るものが入り込んだのだとすれば、それを私たちは今も画面に見ているはずなのだが、それにしても、このぞくぞくとした、畏れにも似た感覚は何なのだろう。

*1:坂崎乙郎「森弘之」『現代画家論』(1975年 読売新聞社刊)

*2:前田常作「越の縄文人」『森弘之画集 越の函人』(1995年 青木画廊刊)

*3:高岡紘「森弘之のこと」同上

*4:若松基「森弘之さんの内宇宙」同上