motowakaの備忘録

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新花鳥画への道程―清原啓一の画業にふれて

はじめに

日本人が描く油絵を「洋画」と呼ぶ慣わしは、本来、少し変なものなのだが、多くの人にとってはどうでもかまわないことなのか、どうも、このまま残っていってしまうもののようである。
今日、いわゆる洋画は、日本画以上に人々から身近に親しまれる絵画様式であるはずで、それは人々の暮らしぶりや、さらには生き方の変化に対応したものでもある。
60年余に及ぶ清原啓一の画業を振り返るということは、そうした日本人のライフスタイルの変化と、実は決して無縁ではない。“群鶏の画家”という異名で呼ばれてきたその歩みは、洋画壇では際だって独自な位置を占める。だがそれは、わが国の洋画が絶えず抱えてきた、言ってみれば“いつまでも継子扱い”のような課題に、実に率直に向き合ってきた道程なのであって、このことは、充分に強調されてもよいだろう。

個人的なことだが、清原啓一展を担当するのは、実はこれが二度目である。1994年の富山県民会館美術館の個展では、私は準備段階で近代美術館に異動になったが、展示の現場にも呼んでいただいて、納得いくところまで仕事させてもらえたことが、懐かしく思い出される。
その時以来、私には、清原先生は実に“絵かきらしい絵かき”で、その作品は、実に“油絵らしい油絵”だなぁという素朴な感じがある。
このたびは14年ぶり二回目の清原啓一展担当であるが、この間に先生は、日本藝術院賞・恩賜賞を受賞し、藝術院会員に就任された。亡くなられた河北倫明先生が、かつて「油彩による華麗な琳派調」と評された独自の画境も、いよいよ円熟の度を深めておられる。
私のほうはといえば、あれ以来、あまり進歩もないが、富山県の洋画の歴史を少しずつ調べたりしてきた。その目で今一度、清原啓一の画業を振り返ると、本県出身の洋画家の中から先生が、わが国の画壇の頂点に加わられた偉業には、とても感慨深いものがある。
言うまでもなく外来の文化である洋画が、ことに地方で普及するまでには、長い年月を要した。富山県で洋画が今日のように広まりはじめた端緒は、(多くの地方で状況は同様かと思うが、)戦後間もない時期に求められる。そして清原啓一の画業のスタートは、まさにその地点にある。以下、「先生」はやめにするが、まずこのことから、少し饒舌に記してみたい。

画業のスタートを支えた人々

終戦の年である1945年に富山師範学校に入学した清原青年は、同校教諭だった曾根末次郎(1888〜1969、富山県洋画連盟初代委員長を務めた)に絵を学び、画家への志を抱きはじめた。1948年に師範学校を卒業した清原は、曾根の計らいによって津沢中学校(現 小矢部市)に勤務することになる。
時は学制改革のさなか。新設間もない同中学校は、当時、砺波高等女学校(現 富山県立となみ野高等学校)の寄宿舎を仮校舎としていた。その高等女学校の教諭をしていたのが川辺外治(県洋画連盟第3代委員長、1901〜83)であり、もちろんそのことこそが、清原の志と才能を認めた曾根の狙いだったわけである。
川辺は、この少し前の1941年、第4回新文展へ砺波野の地に居ながらにして入選を果たしていた郷土の洋画の先達であった。曾根の依頼を受けた川辺は、中学校長に掛け合って、清原が土曜・日曜と川辺のアトリエに通うための特例許可を取り付ける。日曜はともかく土曜も朝から、学校ではなくアトリエへ直行というわけだ。そうして上京までの数年間、「大雪の日だって胸まである雪をかきわけてでも」デッサンを学びに通う日々が続いた。
清原の画業のスタートに大きな影響を与えたもう一人の画家が、当時福光町(現 南砺市)に疎開中だった棟方志功(文化勲章受章、1903〜75、県洋画連盟2代委員長も務めた)である。第2回富山県観光美術展という展覧会で、《麦屋節》が審査員の棟方の目に止まり、受賞した清原は、挨拶のため棟方の仮寓を訪ねた。そこで接した棟方ならではの天衣無縫の芸術観、作家としての生きざまに感銘を受けた清原は、以後上京するまでの間、しばしば棟方のもとを訪れ、強い刺激を受けたものだという。

上京〜「群鶏」という画題の発見

1950年に清原は上京し、親の意向もあって明治大学政経学部3年)に編入する。在学中も画業は怠らず、卒業の年(1952年)には《椅子による女》で日展初入選を果たした清原は、両親の反対を押して東京に残り、本格的な制作活動を開始したのだった。
辻永(文化功労者、1884〜1974)に師事したのもこの頃。紹介の労をとってくれたのは、やはり疎開画家の一人、伊藤四郎(光風会、新文展などで活躍、1897〜1976)だった。辻はやがて日展の社団法人化に際して初代理事長を務めた実力者だったが、清原は、実はそうしたこともよく知らず、ただ言われるままに訪ねていったものだという。さしずめ若さゆえの怖いものしらずというものだろう。
だが清原啓一という人には、多くの年長者に好意的に導かれて画業の道をまっしぐらに歩んだ人という印象がある。才能を認められたこともいうまでもないが、誠意があれば通じるという信念、真摯な人柄のなせる技でもあっただろう。
若い頃の辻は、みずから飼っていた山羊を描いた連作で知られ、“山羊の画家”と言われていたが、やがて1954年に清原が最初の《鶏》を日展に出品し、生涯続く《群鶏》の連作をはじめたのは、「田舎で鶏を飼っていたことを思い出した」だけで、近しく思えるテーマが偶然の暗合だったようなのは面白い。
清原が毎日50羽ずつ、2000羽に及ぶまで鶏小屋でスケッチを繰り返したエピソードはよく知られているが、身近な動物を描いた経験から、「ヤギは大変だったが、トリはもっと動くから大変だろう」と辻には言われたそうである。
この始終動き回って、描くに苦労の多い《群鶏》という画題の発見について、どうも作家自身は特に深い理由もなく、それを選んだようにしか述べていない。ただ私の勝手な想像では、ここで控えめに述べた「田舎」、すなわち“ふるさと”ということが、本当は大事だったのではないかと思われるのだ。
戦後間もない上京の当時、清原青年の住まう辺りは、東京とはいえ、まだ郊外だったのだろう。自宅の庭に鶏小屋を設えて、少年期にふるさとでそうしてきたのと同じように、鶏たちの面倒をみてきたものだという。
画家の生まれ育った砺波野の風景は、実に美しい。遥かに立山連峰を臨む一面の水田の中に“屋敷林”と呼ばれる防風林で囲まれた農家が、浮き島のように散在する“散居村”の景観は、今では、その保全が課題視されている。
画家への志に駆り立てられて上京してきた清原の胸には、しかし、いつまでも変わらず、あの美しい散居村の風景が輝いていたのにちがいない。故郷を離れ、毀誉褒貶の激しい画壇のサバイバルレースの中に身を置く中で、無意識にせよ、画家は“ふるさと”に繋がる何かを求めたのではなかったか。私には、そのように思われてならない。
鶏を画題としはじめた初期作品に目を向けると、この時期のトリたちは、閉じ込められた檻の中で、「きっ」と何かの気配に耳をそばだてている。それは今にして思えば、砺波野の豊かな自然の中から、都会の喧騒に身を投じた清原青年自身の心情を、少なくとも幾分かは反映したものではなかっただろうか。

鶏の中に自分のいのちを込めようと

さて、生涯の画題を見出した清原は、以後、今日に至るまで、実に半世紀以上の長きにわたり、このテーマを制作の中心に据え続け、その類まれな連作によって、画家としての独自の地保を築いてきた。今回の回顧展でも、日展や光風会展の出品作を中心とした“群鶏”のシリーズ展開に重点を置いた構成を行っている。
一口に「展開」といったが、等しく鶏を画題としながらも、清原が描いてきた群鶏の姿は、実に多彩な変遷を辿ってきている。そのスタイルの変化を細かく見出せばきりがなく、またある時を境にがらりと行きかたが変わっているわけでもないのだが、大きな潮目のような意味であろう、河北倫明は「三段階の変遷を感じた」とかつて述べている。
第一段階である初期の作品については「むんむん迫るストレートな熱気を感じさせる」とされていて、「鶏の中に自分のいのちを込めようと、まっしぐらに挑戦」した清原が、「自画像を描くような気持ちで突きこんだ」ことが指摘されている。
時代背景を見るならば、1950年代の後半は、「もはや戦後ではない」(経済白書)と言われはじめた時代である。高度経済成長をはじめた社会の中で、清原の身辺の風景も日に日に都市化が進んでいったことだろう。またそれは国際化の時代でもあって、美術界にいわゆる“アンフォルメル旋風”が吹き荒れたのもこの頃である。当時の新進画家たる清原が、こうした舶来の新思潮の席巻を横目に、今日的な具象画のあり方を巡って試行を重ねたであろうことは当時の作品から窺い知れる。
1959年に日展特選を得た《群鶏》は渋い色調で構築的な作風の中に動きがあり、またその絵肌は絵画の物質性への関心も示しているようだ。だが、この少し前に、清原は父を喪っていて、この作品には十分手を入れられず、「どうとでもなれ、という捨身の様な気持ちがあって、それが良かったのかも」と自身で振り返っている。
かつて棟方が語ってくれたことで、若き清原の印象深かったものに、「人間が絵を描くのではない、神様が手を下して描いているんだ。神様が責任を持つんだ。自分の作品に責任感を持つなんていうのは小さい」といった言葉があったそうである。言われた当座は意味が分からなかったというが、《群鶏》の日展特選は、その域を清原がはじめて体感した出来事だったのかもしれない。

転機となったヨーロッパ一人旅

だが、そのような境地というのはなろうと思ってなれるものではなく、時代の中で独自の表現を模索する若き画家の真摯な情熱が、出口を求めて苦闘を繰り返す時期がこれに続く。こうした時、たいがいの画家は、それまでの画題を替えることで目先を変えるものだが、清原はそうはしなかった。
清原が親しく交わった画家には新道繁(藝術院会員、1907〜81、光風会理事長を務めた)もいて、ほとんど毎週のように訪ねたりしたそうだが、 “松の画家”と言われた新道は、「わからなくなるとテーマを絞って、松という題材を生活の方向づけにしています」という言葉を残しており、こうした言い方は、清原にも当てはまるものだったかもしれない。
とにかく一言でいってしまえば「画面づくりのあれこれの工夫」ということになるが、絶えず欧米からもたらされる新思潮の前にさらされているのが、日本の洋画の宿命でもある。ルオー、ルドン、そしてアントニ・クラーベといった自分の好きな画家たちの仕事を参照したりもしただろうが、「むしろ反対に近づけない」ことを、清原は意識したという。
ルオーについては、欧米では珍しいばかりでなく、日本人のものともまた違う独自の線や、さらにはその精神性に惹かれたらしい。またクラーベについては、その来日の際に何度か会って話したりもしたが、やがて体質的にはあわないと感じつつ、しかし「油絵具の扱いなど学ぶべきことがとてもある」と述べていて、興味深い。
東京オリンピックの年である1964年、この年の清原の《鶏》は、画面の対角線を生かした動勢のある画面の中に、かつてなく雄々しく立つ雄鶏の姿を描いて、光風会員賞を得た。
年齢で言えば清原は30代後半に差し掛かっていたが、ここで思い切って10ヶ月ほどの長きにわたり、西欧の各国やギリシャ、エジプトまでも経巡る旅に出た。小田実の『何でも見てやろう』がベストセラーになったのはその数年前だが、思うほど気ままで楽しいばかりではないのが、安宿を泊まり歩く一人旅。苦労も多かったはずである。
ここで、「東洋と西洋の気候風土からくる文化の相違を身にしみて自覚」した体験こそが、清原の最大の転機だったことは間違いない。まさに実地で身をもって知る、ただ外形的に欧米の真似をしてもだめだということ。しかし、日本的な風土性の感覚の中には、“四畳半の茶室で宇宙を観る”といったような良さもあるということも、かえって外から眺めたからこそ強く感じたと、清原はこの旅のことを振り返る。

四畳半の茶室で宇宙を観る

先に河北倫明が「三段階の変遷」と述べた中の第二段階、すなわち初期の行き方に整理を加え、組み立ての工夫を入れ、色や形の変化と抑揚にも注意を払って「画体の新味と充実を計った時期」を、いつからと言えばいいのかは、難しい問題である。ただ、明らかに潮目が変わったのは、このいわゆる“外遊”が境である。
たぶん画面への絵具の食いつきも、まるで違うのではないだろうか。ヨーロッパで感じたと画家自身が言っているものとは反対に、清原の画面は西欧古典絵画に見られるような、油彩画らしい重厚な画格を獲得する方向へ、徐々に整っていっており、興味深い。
その成果は、たとえば光風会で第60回記念特別賞を受賞した《小さな争い》(1974年)に観ることが出来る。この前年あたりの作品から、題名がただの鶏、あるいは群鶏といった外形的なものではなく、争ったり遊んだりといった、トリの生態に注目するものに変わったこともポイントである。
“四畳半の茶室で宇宙を観る”というのは千利休あたりの思想であるようだが、その感覚が、小さな生命の躍動の中に、より大きなテーマ、群像劇としての精神性を見出していこうとする展開をもたらしたのである。
1970年には国鉄が、日本と自分自身の再発見を訴える「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを開始している。この年の大阪万博を一つの頂点として、浅間山荘事件(1972年)やオイル・ショック(1973年)など、時代も確実に曲がり角を迎えようとしていた。
清原が、粘り強くあたため続けてきた“群鶏“という画題。これまで造形的な形態として画面に現れていたトリたちであるが、長年身近に親しんできた中で、清原には彼らなりの喜怒哀楽や、その群れの中で生じる微妙な社会性の在りようが感じ取れるようになっていた。
穏やかに憩う姿と、激しく闘争する姿の“静と動”――その鮮やかな対照。そうした精神的なドラマと、油彩画ならではのあらゆるテクニックを駆使した造形的なドラマの揺るぎない一体化こそは、西欧古典絵画の重厚さを思わせる完成度をもたらした。欧米古典のトリプティーク(三連祭壇画)を思わせる安定感を見せ、辻永記念賞を受賞した《鼎立》(1978年)をはじめ、対構造の面白い《烈・寂》(1979年)などの傑作が続く時期である。
1970年代の後半から80年代初頭には、ソ連アフガニスタン侵攻や、イラン・イラク戦争フォークランド紛争などのニュースもあって、『不確実性の時代』という流行語が聞かれたりもした。《戦雲》(1982年)などの作品には、そうした時代の気分をやはり幾分かは反映している面もあるだろう。激しく争うトリたちと、それを傍観するトリたちの対照が印象に残るが、《不動の闘士》(1983年)になると、あえて争わぬ信念のもと立ち尽くす軍鶏の姿が、宗教画のような崇高な画格を備えていて、トリの姿に託されたその精神性には、何度見ても唸らせられる。

油彩による新花鳥画

さて、河北倫明が「三段階の変遷」と呼んだ清原芸術の第三の段階は、「いわゆる日本の風土性のもつ美しさに目覚めながら素直な統合に入っていった」とされる現在の画境に続く道だが、その潮目はどこに求められるだろうか。
日展出品作では1984年の《遊鶏》あたりが分水嶺をなし、2年後の《秋色遊鶏》で「一つの形式を成就」したことは間違いないが、作品暦を注意深く眺めていると、その起源は意外にさかのぼって、1975年の《遊鶏》あたりに求めることが出来そうである。
清原は、特定の画家の直接的な影響を指摘されることはあまり好まないようだが、「やっぱり好きなのはとなると、なんといっても宗達ですね」と言っていることを考えれば、この作品は明らかに、桃山から江戸初期の琳派の影響を如実に感じさせるものである。
ここでもう一つ、画家をめぐる環境の変化を指摘すれば、ふるさとを離れて四半世紀が過ぎようとしていたこの頃、富士を臨む河口湖畔に新たにアトリエを構えたこともまた、清原の変化の要因だったのではないかと私は思っている。
厄年の頃というから、さらにさかのぼって1960年代末のことだが清原は大病をし、それで都会を離れた地に制作の場を移すことを願うようになったのだという。このとき四季の変化に富んだ自然豊かな河口湖畔のアトリエを入手できたことは、以後の画家の心身にはかり知れない好影響を与えたことが想像に難くない。

群像劇の重厚さから、豊饒な大自然との合一へ

重厚な《不動の闘士》から、豪放華麗な《秋色遊鶏》への転進は、驚くべき大胆さで行われたように思われるが、それは年月をかけてあたためられてきた新画境であった。時代は昭和の終わりにさしかかり、当時の首相が「戦後史の大きな転換点」というようなことをしきりに口にしていた頃。スペース・シャトルの爆発や、チェルノブイリ原発の事故などもあって、科学万能神話は過去のものとなり、人々の生活感も再び曲がり角を迎えていた。
清原の新画境を河北倫明は「日本的装飾観に裏打ちされた新花鳥画の好例」と評したが、伝統に連なりつつも、“装飾性”ほど時代の感情を如実に反映するものも、またあるまい。ただ西洋的な価値観の限界を思ったからといって、チャンネルを切り替えるように東洋趣味を懐かしめばよいというものではないのは言うまでもない。
このとき、ふるさとを遠く離れて以来、清原を「日本の風土性」の中へと繋ぎとめてきた、小さな生命の躍動――すなわち“群鶏”という画題こそが、画家を群像劇の重厚さから、豊饒で深遠な大自然との合一という、新たな画境へといざなったのである。なればこそ、1991年以降の剣岳の連作もまた、この大いなる自然に抱かれる感覚の中から、なんら違和感なく立ち現れてきた表現であることが頷けるのだ。
若いときから一生に一度は行ってみたいと願っていたふるさとの3000メートル級の急峻、剣岳に、「元気なうちに」と60代半ばにして1週間泊り込みでの取材を敢行。滞在中は、幸い好天に恵まれ、普通ならば人を寄せ付けない峰々の、圧倒的な存在感を夢中で描いたものだという。ただ、最終日だけは悪天候に遭い、死ぬかという恐ろしい思いをして、豊かで優しいばかりではない自然の表情も体感したらしい。
剣岳(八ツ峰)》(1992年)は“裏剣”と言われる長野県側から仙人池ごしに捉えた剣岳(八ツ峰)のごつごつとした岩肌の姿だが、ここに見られるように、自然の内懐深くに入り込んだ風景は、実在の景色にもかかわらず、まるでこの世のものとも思えぬような幻想的な表情を見せる。《雷鳥の出る空》(1994年)では、そこへ鶏の代わりに雷鳥が現れ、大きな大きな空の下に屹立する小さな生命のたくましさを見事に描き出している。

絵画の本質に向かう道程

日本的な自然感を突き詰めていくと、主観と客観とは一如になっていく。一つの到達点ともいえる第58回日本藝術院賞・恩賜賞に輝いた《花園の遊鶏》(2001年)では、咲き乱れる花とのどかに遊ぶトリたちの姿は渾然と一体化していて、生命の瑞々しい輝きが、画面からあふれんばかりに広がっている。
さて、この展覧会のために描く新作を、六曲一双の屏風仕立ての大画面でやりたいと、清原先生から聞かされた瞬間は、正直、驚いて言葉をなくしそうになった。右隻、左隻のそれぞれが、6m近くにもなろうという超大作を、傘寿(80歳)を過ぎたこの老大家は描こうというのだ。
体力的に、それは無理ではないのかと思ったのだが、新緑に遊ぶ鶏と、紅葉に遊ぶ鶏をそれぞれに描きたいと聞いたとき、この画家は、日本の風土性の季節感の中に自在に遊ぶ画境をすでにわがものとしていて、懐かしいふるさとに錦を飾る回顧展に、畢生の大作で臨みたいのだという意欲が分かった気がして、今度はとてもうれしくなり、何とかそれを実現してほしく思った。
制作は、作品搬入の日ぎりぎりまで続けられ、大きな大きな画面の隅にサインを入れるため、床にかがみこんでいる先生の姿を見たとき、あぁ、やっぱりこの人は立派な“絵かき”だったんだなぁとしみじみ思ったものである。
多くの人々の思いに支えられて画業を大成した清原啓一は、まさに字義通りの意味で「ふるさとが生んだ画家」と呼ぶにふさわしい。
また、油彩画というメディアの表現力と、日本的な風土性の調和という、清原がその画業を通じて実現してきた課題は、わが国の画家たちが油絵具を手にして以来、連綿として積み重ねてきた洋画の歴史の本流にしっかりと根ざすものであった。
一見では特殊な経緯を辿ったかに思われそうな清原啓一の画業は、実は絵画の本質へと、一心に導かれていった道程だったともいえるだろう。
その集大成となるこの展覧会を、ぜひ多くの人に見ていただきたいと、心から念願している。