motowakaの備忘録

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「アール・ブリュット」について

米田昌功さんから、滋賀でのアール・ブリュットについての取り組みの資料をもらったので目を通す。
「作品」なのか「作家」なのか。そこにはアートの本質について考える切り口があると思うのだが、丁寧に、慎重に、触れていかなくてはいけないのではないか、と思わずにはいられない。ジャーナリスティックに取り上げられがちであるから、なおさらだ。
一方で、富山の作家たちの手づくりの展覧会である「太閤山ビエンナーレ」では、なんら特別視されることなく荒見さんや村中さんの作品が受け入れられていて、これこそが本来あるべき姿ではないのか、と考える。
福祉という観点を離れて、芸術という観点のみから見れば、作者の手を離れた瞬間から作品は自律しているものだ。少なくとも近代芸術の考え方の原理はそうである。やや楽観的だが、一般の観衆の視点を含め、富山の状況は、かなりその原理に迫ってきているのではないかという印象もある。
ただ「そうは言っても、作者の文脈から完全に自由になれる作品など現実にはない…」云々、といった現代アートの理屈で、「作品でもなく作者でもなく現象として見ることこそが現代的な…」云々、といった混ぜっ返しが入ってくると、話は複雑化する。私の頭が悪くてそういう理論が分からないだけなのかもしれないが、どうも「為にする」議論もときどき混ざっているような疑念が私にはぬぐえない。
実際に「アール・ブリュット」のアーティストたちに会ってしまえば、福祉などという大げさな話以前に、人間的な「情」が絡んでしまいがちになるのだが、私のような立場はそうしたものから徹底して自分をひきはがし、自律した作品として見つめる努力をしなければならないのだろう。そして言うまでもないが、彼らの作品はそうした観点でみた場合にも、すごい魅力を放っているのだ。
今、富山でどのような取り組みが必要なのか。また「覇気がない」とか言われそうであるが、私はこれからも丁寧に、慎重に、考えていきたいと思っている。間違っているだろうか。