motowakaの備忘録

毎度ご無沙汰いたしております

南薫造宛の書簡について

今日は、あるお宅へ五島健三についての貴重な資料を見せていただきにお邪魔したのですが、そこで「motowakaというブログを書いてっらっしゃるのでは?」と奥様よりお尋ねがあり、冷や汗あぶら汗でありました。こういうものを書いていると言うことは、実は館長にはまだナイショなのであります。(笑)
それもさりながら、先日来、大変お世話になっていながら、全然調べものが進捗していない状況も丸見えというわけで、誠に誠に申し訳ない限りです。
貴重な資料というのは、明治末から大正初期にかけて五島健三が、東京美術学校で同窓だった南薫造に宛てて出した手紙であります。本日お伺いしたのは五島健三の甥にあたる方のお宅ですが、大変熱心に五島について調べておられるので、南薫造の孫にあたる方から、その手紙をいただくことができたということです。手紙を拝見いたしまして、非常に味のある、しっかりした字で書かれていること、そして、驚くほど保存状態の良いことに感動しました。まずはコピーを取らせていただいて、これからじっくりと読ませていただきたいと思っております。
南薫造は明治40年に五島と一緒に東京美術学校を卒業した後、留学(イギリス〜フランス)をしています。五島からの手紙は、帰国後の二人の交流ということになります。南の生家は広島県で、医師の長男でした。その環境で、当時、よく美術学校へやらせてもらえたものだと感心しますが、帰国後の南が、東京ではなく、郷里に戻ったのもそうしたことが関係してのことだろうと思います。
そうしたわけで、あて先は広島県の南の実家なのですが、住所は「安芸国…」と書き始められており、明治末であってもこういう感覚であったのかと時代を強く感じました。
南薫造はのちに帝国美術院会員、東京美術学校教授、帝室技芸員などになった、大変著名な画家なのですが、ネット上を探してもあまり都合のいい略歴が見当たりませんので、また参考になる図録などを探して、できれば五島のものと対照するような形で、後日ここにメモしたいと思います。(←と、自分にプレッシャーを掛けておきます。)
広島県立美術館で平成10年に大規模な「南薫造展」が開催されているようですね。当館の書架にはありませんでしたので、何とかしなければ・・・。→ 
生家が記念館になっていると言うことも、今はじめて知りました。さすがと言うか、なんと立派な生家でしょう!→ hiroshimarekiminkyo.com
手紙は、五島が鹿児島に赴任した後も、大正5年のものまで残っています。分かっていることの少ない五島について、どんな些細な記載でも大事な資料になることと思います。宮仕えの哀しさで、年度末はおたおたばたばたとしているのですが、なるべくがんばって分かったことはまとめさせていただきたいと思っております。いろいろ貴重な情報をいただいているのに、仕事が遅くて本当に申し訳ありません!