富山県の置県と富山師範学校の簡単な沿革
以上の三人は、京都府画学校を卒業した森屋熊夫が富山に来るまでの赴任教師たちです。一見して金沢ゆかりの人たちが多いのが目に付きますが、それもそのはずで、富山県が現在のようなかたちで置県されたのは明治16年(1883)、石川県の一部だったり、紆余曲折の期間があったのでした。
廃藩置県から富山県の置県まで
1871 | 明治4年 | 8月29日 廃藩置県によって富山藩の領域(おおむね神通川流域)が富山県に |
12月31日 旧加賀藩領の礪波郡と新川郡を併せ、富山県を新川県に改称 | ||
1872 | 明治5年 | 9月27日 七尾県射水郡を編入。旧越中国が新川県として一つの県に |
1876 | 明治9年 | 4月18日 新川県が石川県に編入 |
1881 | 明治14年 | 12月19日 越中国砺波郡出身の司法省役人、石崎謙が代表となって「分県丿議」(分県の嘆願書)を元老院議長寺嶋宗則に直訴提出 |
1882 | 明治15年 | 9月 越中の有志を代表して、越中改進党幹事の米沢紋三郎と入江直友らが上京し、内務卿山田顕義らに「分県之建白」を提出嘆願 |
1883 | 明治16年 | 5月9日 太政官達により、佐賀県、宮崎県の分県とともに、旧越中国(越中4郡)を富山県として再び設置 |
参考: 富山県 - Wikipedia
富山師範学校の簡単な沿革
1873年(明治6年) | 富山市北新町の民家を借り、教員養成を目的として「新川県講習所」を発足 | *1 |
1875年(明治8年) | 富山市総曲輪に校舎を新築移転、新川県師範学校と改称する | *2 |
1876年(明治9年) | 新川県が石川県に編入されたのに伴い、石川県富山師範学校と改称する | *3 |
1877年(明治10年) | 石川県第二師範学校と改称する | *4 |
1880年(明治13年) | 石川県富山小学師範学校と改称する | *5 |
1881年(明治14年) | 石川県富山師範学校と改称する | *6 |
1883年(明治16年) | 富山県の置県に伴い、富山県富山師範学校と改称する | *7 |
1884年(明治17年) | 富山県師範学校と改称する | *8 |
1886年(明治19年) | 前年の文部省令により富山県尋常師範学校と改称する | *9 |
1898年(明治31年) | 前年の師範教育令により富山県師範学校と改称する | *10 |
1905年(明治38年) | 男子部、西田地方の新築校舎に移転 | *11 |
1913年(大正2年) | 女子部が上新川郡堀川村に移転 | *12 |
1917年(大正6年) | 女子部が富山県女子師範学校と改称 | *13 |
1943年(昭和18年) | 官立学校に移管され、富山師範学校となる | *14 |
1945年(昭和20年) | 戦災で校舎を焼失 | *15 |
1949年(昭和24年) | 国立富山大学に包括される | *16 |
- 参考:富山大学 沿革【旧富山大学50年史】より教育学部 第一章 教育学部の発足(PDFファイル、上記表中の注記はこの文献での記載内容です。)(*17)
なお戦後の授業は、男子部…本科2年生=高岡工業専門学校、本科1年生=県立富山中学校、予科生=日本海ドック草島寮、県立神通中学校、焼け残った師範学校の養正殿(後に不二越の寮)、女子部…勤労動員先の不二越の寮と分散して再開。
校舎再建問題は、当時進駐軍の管理下にあった旧連隊あとの建物(兵舎)への移転が昭和21(1946)年5月にようやく許可され、6月1日に開校式、男子部の全校生が兵舎で授業を開始。女子部は、西田地方の師範学校男子部跡地に校舎が建てられ昭和21年12月に授業開始。翌年9月、それを新制の芝園中学校に譲り、五艘の旧富山商業学校敷地あとの新築校舎に移転(昭和24(1949)年5月の富山大学教育学部の設立まで)。(*18)
*1:本校ハ明治六年十月三日、新川縣ニ於イテ小學校教員講習所ヲ開設セシニ起因セリ…富山北新町ノ民家ヲ借リ、該講習所ヲ開設セリ
*2:明治八年六月、富山總曲輪ニ校舎ヲ新築シ、生徒寄宿舎ノ制ヲ設ケ、此ニ移轉セリ、同年十二月新川縣師範學校ト稱シ…
*3:(明治九年)四月新川縣廢セラレテ石川縣ニ併セラレタレバ、石川縣富山師範學校ト改稱シタリ、…八月金澤師範學校ヲ本校トシ、此ノ校ヲ支校トス
*4:10年2月 石川県第二師範学校と改称。12月 富山総曲輪旧藩校広徳館跡地に移転し、元の校舎は石川県第二女子師範学校に充てる。
*6:14年10月 小学の2字を削除。
*7:16年7月 石川県を割いて富山県を置いたことから、富山県富山師範学校と改称。
*8:17年4月 男女両師範学校を合わせ、単に富山県師範学校と称し、男子部・女子部をもって区別する。
*9:18年7月 文部省令にて「富山縣尋常師範學校」となり、…
*10:明治30年10月、「師範教育令」が公布され、31(1898)年4月より富山県尋常師範学校は「富山県師範学校」と改称された。
*11:明治36年6月5日の文部省認可を経て、明治38(1905)年7月、師範学校男子部は西田地方の新築校舎に移転した。42年5月には、附属小学校も完成して総曲輪校舎より移転した。
*12:大正2(1913)年に富山県師範学校の女子部は、総曲輪校舎から堀川村の新築校舎に移った。
*13:大正6(1917)年3月には、富山県師範学校規則が改正(県令第26号)され、女子部は「富山県女子師範学校」として独立した。
*14:昭和18(1943)年3月の師範学校令の改正で師範学校は官立となり、教員養成の国家支配の強化が図られ、…
*15:昭和20(1945)年8月2日の富山大空襲で、師範学校の男子部と女子部の校舎はそのほとんどを焼失した。
*16:昭和24年5月の法令の改正によって、そのいずれもが「富山大学富山師範学校」(富山大学教育学部に包括、昭和26年3月まで)として新しく発足するようになった。
*17:2007/1/15 この稿は、shakesさんにご指摘いただいて大幅に改稿しました。内容をあまり吟味しないで他所の記載を丸写ししてしまっておりました。お恥ずかしい限りです。
*18:戦後まもなく活発化する富山の美術運動が、師範学校も旧制中学校も隔てないような拡がりを持ったことを不思議に思ってきましたが、わずかな期間ですが、こうした一時同居ももしかしたら影響があるのかもしれないと思い、冗長ですが書き留めておくことにしました。