motowakaの備忘録

毎度ご無沙汰いたしております

越中人気質

越中人は粘り強い」と、よく言われる。
本当にそうだと感じる。

だが、少し違う角度から見ると、「粘り強さ」は「頑固さ」「強情さ」と紙一重でもある。
そんなことで、ときどき困ることもある。

それでも、ふるさとを離れて久しい越中人にお会いして、ふと富山の土のにおいを嗅ぎあててしまうと、ついつい嬉しくなってしまう。
たぶん、これは私の悪い癖だ。

「コミュニケーションの場」としての美術館

私はあまりコミュニケーションが得意ではありません。
いつも駄目なわけではなくて、「スイッチON」にすればある程度できるけど、長時間持続できないというか。ちょっと頑張ってコミュニケーションすると、反動でしばらく「スイッチOFF」になっちゃいます。まあ、多かれ少なかれ、誰だってそんなものかもしれませんが。ちょっと程度がアレかな、と。
考えてみたら、絵を描きたい、美術を仕事にしたい、と思ったのは、そういうことが理由だったような気がします。(気づいたのは最近のことですが。)
それが、自分は何が描きたいのかよく分からなくなって。困っている間に、絵を描く人ではなくて、美術館の中の人になっちゃっていました。
こんな自分語りをしたいわけではなくて、「コミュニケーションの場」としての美術館のことでした。

仮面舞踏会の楽しみ

最近、美術館ではただ絵を見るのではなくて、作者を呼んできて、自作を語ってもらうことなどが多くあります。作者ならではのいろんな思いをお聞きするのは楽しいし、いいことなんだろうと思うのですが、だんだん「作家もしゃべって当たり前」みたいな空気になってくると、その風潮には何とはなしに違和感を感じることがあります。(まあ、言葉では言えないことだから絵に描いてるんだろうと思うし。言葉で補わなくちゃいけないのかな、ということもあるし。)
美術館で作品を見ることの楽しさにはいろいろあると思います。いろいろな楽しみ方を許容する場でないとならないとも思います。
そういう楽しみの中のひとつに、絵の前では、人は誰もが「一人の人間」になって作品を見ることができるということがあると思います。国会議員でも、社長さんでも、サラリーマンでも、専業主婦でも、老人でも、子どもでも、絵の前では「肩書き」を離れた一人の人間として、作品を味わうのだということ。
よく知りませんが、たぶん茶の湯で、いったん茶室に入ってしまえば、天下人でも一介の町人でも、一人の亭主と客でしかない、というような感覚が近いのではないかと思います。茶室の外界のあれこれを離れて、一椀の茶を味わう。美術館で作品に向き合い、鑑賞するというのには、それに似た楽しみがあると思うのです。…それは「裸の自分」と向き合うことなのかと思っていましたが、最近読んでいるコミュニケーション論の本に、そういうのは「仮面舞踏会」のようなものだということが書いてあって、なるほどなあと。

私はネガティブだとよく言われます。ものすごく好意的に言い直すと「過度に内省的」らしいです。コミュニケーションがあまり得意ではないのは、自分がいい人ではないことを、自分もそれなりに知っているので、ボロを出すのがイヤなのだろうと思います。
絵を見て、絵の話をしているときはとても楽しいです。それをコミュニケーション論の観点で考えると、絵の前での私は「ただの人間」という仮面を付けることで、実はいい人ではない自分から解放されて、その作品と、あるいはその作品を一緒に見ている人たちと、無心にコミュニケーションできているのでしょう。
ただ作者という人だけは、一緒に絵を見ていても、その作品の作者という立場からは逃れられないのですよね。もちろん一般論としては、せっかく作品を制作発表しているのだから、いろいろな観衆の声を聴くというのも大事なことですよという言い方はあります。それはそれでもっともなことですが、私たちみんなで仮面舞踏会を楽しんでいるのに、一人だけ素顔でその場にいなければいけないというのも、何だか気の毒だよなあと思わずにいられない時があるのです。

コミュニケーションの場としての美術館

コミュニケーション論でもう一つ面白かったのは、「仮面舞踏会」的なコミュニケーションのあり方というのは、都市型のそれだということでした。田舎では出会う人をほとんど知っており、知り合い同士の中で積極的な関係を持つ。しかし大都市では多種多様な人との、無数の刺激的な接触が間断なくあって、田舎でのような濃密な人間関係をここで全面的に展開しようとすれば、たぶん神経がもたない。
「作家もしゃべって当たり前」という空気は、濃密な関係を求める意味では望ましいものであっても、相手がどこの何者で、へたをすれば家族構成から昨日の夕食の内容まで、何もかも知り尽くした安心感を前提としたがる田舎型のコミュニケーションスタイルのあらわれなのかもしれません。
もちろん都市型がよくて、田舎はだめだというつもりはまったくありません。(私はどちらかと言えば、首都圏になじめずに地方に流れてきて、やっと息ができているタイプの人間だと思います。)
美術館はいろいろな楽しみ方を許容できる空間でなければならないと思う、と書きました。時代の変化に応じて、作家が自分の思いを語ることを期待してもよいと思いますが、「作家もしゃべって当たり前」を押し付けることはしたくないな、と思うのです。
そして、時代の変化の根っこにあるものは何なのかということを、少しずつでも考えていきたいと思っています。その中で(自分も苦手なのに変な話だとは自覚しながらですが、)「コミュニケーションの場としての美術館」のあるべき姿を考えていきたいと思います。

「これからの美術館は、“社会教育”なんて言ってたらダメなんだよ」?

今日はちょっと頭の痛いことを言ってる人がいたので、それはないなと思ったことを自分なりに整理しておくためにメモ。

偉い人曰く「これからの美術館は、“社会教育”なんて言ってたらダメなんだよ。」

まあ、おっしゃりたいことは地域の振興とか、そういう面で貢献していかないと、美術館は社会から必要とされなくなるということで、最近よく聞く言説ではある。それは分かる。でも細かいところだが、こういう発言をする場合は注意深く言わねばならない。
「そういう面で貢献していかないと」ではなく、「そういう面でも貢献していかないと」である。
「“社会教育”なんて言ってたらダメ」ではなく、せめて「“社会教育”なんて言ってるだけではダメ」でなくてはならないはずだ。
小さな違いのようだが、これは大事なことだ。

公立美術館が拠って立つ法的根拠は、言うまでもなく「博物館法」だ。その第一条は以下の通り。

第一条  この法律は、社会教育法 (昭和二十四年法律第二百七号)の精神に基き、博物館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育、学術及び文化の発展に寄与することを目的とする。

社会教育法の精神に基づいて設置運営されないものは、「美術館」と称すべきではない。その目的は「国民の教育、学術及び文化の発展に寄与すること」以外の何物でもない。
それ以外に公益にかなうことを目指すのは大いにけっこうだと思うが、社会教育として教育、学術及び文化の発展に寄与することは、ここだけは外してはならない最低必要条件だ。

この博物館法を前提として富山県が定めている「富山県立近代美術館条例」にも以下の通り書かれている。

第2条 県民の美術に関する知識の普及及び教養の向上に資するため、富山県立近代美術館(以下「美術館」という。)を設置する。

まず「県民の美術に関する知識の普及及び教養の向上に資する」ことが第一目的であって、その他のことはそれを果たしたうえで、さらに考えるべきことだと整理しておかないと、根本を見失う。

社会教育法は「社会教育に関する国及び地方公共団体の任務を明らかにすることを目的とする」法律であり、そこにはこう書かれている。

第三条  国及び地方公共団体は、この法律及び他の法令の定めるところにより、社会教育の奨励に必要な施設の設置及び運営、集会の開催、資料の作製、頒布その他の方法により、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成するように努めなければならない。

こういうことを言うと「官僚的だ」と煙たがられるのだが、法律や条例は他の何よりも、国や県が、その国民や県民との間に明確に結んだ約束であるはずだ。

こんな面倒くさい(それに法治国家にあっては当たり前の)ことは私だってくどくどと言いたくはないのだが、ときどき振りかえっておかないと、どさくさ紛れにないがしろにされるのが、昨今の風潮のようである。

富山県立近代美術館が今度移転する富岩運河環水公園は、いわば富山のニューフロンティアであって、これから発展していくことが期待されている地域だ。ここへの移転が決まって以来、少しアンテナを立てるようにしているが、さまざまな事業主体による多様なイベントが年間を通じて数多く取り組まれていて、こういったものへも積極的に関わっていかねばならないだろうと思っている。*1

こんなものは学芸員の仕事ではないなどという気はまったくない。だが、たぶんこれらにドンドン首を突っ込んでいけば、学芸員の仕事どころではなくなることも容易に想像がつく。だから、どういう意味でそこに関わっていくのか明快に意識することこそが、嫌々ではなく、積極的に取り組む結果にもつながるだろう。
目的は明らかだ。「すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して、自ら実際生活に即する文化的教養を高め得るような環境を醸成する」ことも社会教育施設の重要な任務なのだから。
つまり地域への貢献は、社会教育の中にはじめから想定されていることであり、「社会教育の奨励に必要な施設」としてやるべきことを優先して取り組むつもりだ。そして、そんなことは言われなくてもやるつもりで、とっくに覚悟を固めている。(悩みがあるとすれば、同僚の中で誰がこういうことに付き合ってくれるかだが。)

社会教育はすぐには成果が表れにくく、分かりにくい価値だ。それよりも、観光その他の面で地域に貢献していくことは成果が目立つ分かりやすい価値だ。しかし、だからこそ社会教育の一見では分かりにくい価値を、繰り返し、根気強く語りかけていくことは、この分野を担当するものとして絶えず心がけていかなければいけないはずだ。

自戒を込めて書き留めておくことにする。

未来予想図(笑)

自分はヤマ師の才能はたぶんないが、地政学的に鉱脈を見つけるセンスはもしかしたら悪くないかもしれないと思う。

昔、「越中文学展」が県民会館であった頃、別にそんな話題があったわけではないはずだと思うのだが、何とはなしに「知事公館を文学館にしたらいいのに」という思い付きを、当時の北日本新聞の文化部の記者さんに話していたことがあった。あとで本当の話になってしまい、驚いたもんだ。*1

ふっとそんなことを思い出したのは、なんだかまた鉱脈のにおいがしたような気がしたからなんだが、ここで野心満々のヤマ師だったら大いに政治的に奮闘して、どうにかしようと思うところなんだろうけど、自分はどうもそういうタマではない。
ただ、自分ごときがどう思おうと思わまいと、地の利時の運、いろいろ条件は揃っちゃってる気がするんで、案外そのヤマ勘が当たっちゃったりすると、絶対に渦に巻き込まれるんで怖いなあ。

くだらないかもしれないが、世のため人のため。なるべく多くの人にとって最善と思われることのために、誰にもほめられなくても働きたいものだと思ったり。

*1:まあ文化人が集まるところだし、あの庭を活かした「渋い」文学館を建てればいいと言っていたのだが、実際に建ったものはちょっとどころではなくイメージの違うものだったので、やっぱりヤマ師の才能はないのだと思う。

啓蒙を二人羽織りする前衛。なるほど、それはしんどいわ

確かに哲学者が議会制と人権(資本主義的な統治)を擁護するようでは知的創造性は望むべくもない。しかし、現代日本の支配原理は近代ではなく植民地的な専制と土俗的な無知のアマルガムであるため、しばしば前衛が啓蒙を二人羽織りしなければならない。

優等生と不良? - nomad68kの日記

哲学のことはよく知らないのですが。現代美術には哲学と同じような問題意識を持つものが多くあります。そうしたものが、この国の社会の中ではなかなか足場を持ちにくいということについて、なるほどそういうことなのかなと、ちょっと腑に落ちたような気がしてメモしておこうと。

  • 哲学者は政治家、弁護士の優等生的な発言の欺瞞、矛盾を批判し、概念を創造する切片でなければならない。そのためには、優等生的な自己完結した世界への緊張を持つ「不良」でなければ
  • 不良が不良でいられるようにするためには、野蛮と無知ではなく優等生が権力を握ればよい

20世紀以降の美術について言うと、ここでいう「哲学者」の立場と現代美術のアーティストのそれはほぼ同じだと思います。
現代の諸問題を考えるうえで近代批判は必要。今日の日本には近代の矛盾に起因する問題だらけ。
ただ、この国の「近代」は端的に未成熟。ニュースを見ても、…それに近ごろはインターネットを眺めていても、「植民地的な専制と土俗的な無知」だらけ。優等生の姿を見かけようものなら「野蛮と無知」がスクラムを組んでつぶしにかかるという世相。

  • 現代日本の支配原理は近代ではなく植民地的な専制と土俗的な無知のアマルガム

ああ、なるほど。そういうことですね。

はてなブックマーク - 作曲家の”嘘”と視聴者の期待 - Ohnoblog 2

ところで、この話題になっている作曲家の話題に触れた記事へのブクマコメントの中で「現代アートでもデュシャンの泉とか制作物ではなくて背景とか物語を売りにしたものがわりとあるような。」という意見がわりと支持されてたりするんですが、白樺派の人たちがゴッホの人生の物語に熱狂したこと(近代)と、デュシャンが美術という制度そのものへの疑義申し立てをしたこと(現代)がごちゃ混ぜなのが、アートをめぐる現代日本の状況なのだよなあ。

「与えられた物語」を消費するのは芸術の鑑賞ではない。自ら感じてほしい。…鑑賞の場に誘うのに「物語」の力は絶大なのだが、実はその人なりの感じ方を封じる呪縛にもなっている。なんとも残念な現実だよね。

その記事に、私は上記のようにブクマコメントしていたのでした。

私の勤務する美術館では、初代館長の方針だったのか、開館当時はかなり原理主義的に「その人なりの感じ方」を求める展示を追求し、個々の作品に対して先入観を与える可能性もある解説文は、なるべく付けないという主義だったようです。(その代わりに、作品配列の順序は20世紀の美術史をなぞるように並べることが強く求められる結果となりました。)
よく言えば理想主義的なそういうやり方は、あまりうまく機能せず、なし崩し的に作品の横の解説文は増えていきました。

先日ある記者の方に、「なぜあなたの美術館の常設展は開館以来、美術史をなぞる配列方法を変えられなかったのか」と問われ、「だってその方が分かりやすいじゃないですか」としか答えようがありませんでした。
目先を変えるというだけの意識からならば変える必要はなかったと今でも思いますが、もう少し本質的な問題として、「近代」が根付いてない場で「現代」を問うことについて深く考察し、手段を検討すべきだったかもしれません。

哲学者は「孤高の存在」であってもよいのですが、美術館はそうではないのだから、「前衛」と「啓蒙」を二人羽織りしながらでも、問題点をよく見極めて、悪循環から抜け出すしたたかな方法論を編み出さねばならないのでしょう。*1

*1:横浜美術館の天野さんの連載の中でも、このような問題に触れた部分がありました。 http://yokohama-sozokaiwai.jp/column/2705.html 

現場を知らない人の提言ではあるけれど

日本人よ!秘宝は隠さず、どんどん見せよ:日経ビジネスオンライン
登録必要かもしれないので、読めない人はごめんなさい。
ツイッタータイムラインで批判が多い記事でした。
日経ビジネス「日本人よ! 秘宝は隠さず、どんどん見せよ 」に抗議する - Togetterまとめ
ここにまとまってます。
ざっくりした感想としては、問題意識は悪くなかったけど、それに対する処方箋が現場を知らなさすぎで、突っ込みどころが多すぎでした。ところが驚いたことに、著者の方は全くの門外漢かと思えば、
上山信一@"見えないもの"を見よう

上山信一
(男)
慶應大学総合政策学部教授。大阪市生まれ55歳。専門は企業・行政機関の経営戦略と組織改革。都市・地域再生も手がける。旧運輸省マッキンゼー共同経営者等を経て現職。国交省政策評価会(座長)、大阪府と市の特別顧問、新潟市都市政策研究所長、愛知県政策顧問、日本公共政策学会理事、日本博物館協会評議員等、各種企業・行政機関の監査役、顧問、委員等を兼務。府立豊中高、京大法、米プリンストン大学修士ツイッター@ShinichiUeyama

とのこと。「日本博物館協会評議員」?

何かとお騒がせの橋下大阪市長のブレーンだそうです。
「統合」より28億円安上がり、大阪の美術館併存へ 6月正式決定の見込み(1/2ページ) - MSN産経west

 大阪市北区中之島に市が建設予定の新美術館と、市立美術館(同市天王寺区)の統合が検討されている問題で、上山信一・慶応大教授(府市特別顧問)らは30日、市立東洋陶磁美術館(同市北区)を含め3美術館を併存すべきとする報告書をまとめたと発表した。6月の市戦略会議で併存が正式決定する見通し。
 報告書によると、新美術館と市立美術館を統合した場合、投資費用は最大226億円と想定。一方、2つの美術館を併存させる場合、新美術館の建設(112億円)▽市立美術館の耐震改修(65億円)▽売店などを備えた別館建設(21億円)の総計は198億円に抑えられるため、上山氏は「統合より低コストですむ」と説明した。
 また、上山氏は「新美術館と市立美術館を統合しても、所蔵品の質で東京や京都の国立美術館のレベルを凌駕(りょうが)することは難しい」と指摘。「特徴の異なる収蔵品を備えた3つの美術館の魅力をそれぞれ発揮させるべきだ」と強調した。

あくまでコスト論。それと、いくら大阪が大都市とはいえ、コストコストと言いながら、国立の美術館を凌駕するレベルを目標とするというのがよく分からないところ。(何か国に恨みでもあるのでしょうか?)

ご本人のツイッターを読みに行ってみたら、実は、自身に批判的なつぶやきもリツイートしていたりして、批判には耳も貸さないというタイプではないのかもしれません。
冒頭の記事に戻ると、
日本人よ!秘宝は隠さず、どんどん見せよ:日経ビジネスオンライン

 また、身近なリアルとの出会いの場としては、ミュージアム(美術館、博物館など)がある。例えば世界中の人々がリアルのモナリザサモトラケのニケに会うために、ルーブル美術館にやってくる。ルーブルの年間入館者数はなんと972万人にものぼり、これは世界のミュージアムの中でも断トツの1位だ。もはや巡礼地並みと言っていいだろう。インターネットの発達で、いつでも世界中の美術品の写真を見ることができる。しかし、手軽に映像で見られるとなると、逆に本物を見たい気持ちも生まれてくるのだ。

 そもそも、美術館・博物館は、公立、私立を問わず、よほどのキラーコンテンツを持つか、イベントをやり続けない限り黒字にならない。国内外を問わず、平均でいうと、支出の約2割分しか入場料収入ではカバーできない。公立や国立が多いゆえんである。しかし、役所には資金がなく、もともと深い理解もない。

こういう風にインターネット時代に、逆に美術館・博物館が重要になる、という問題意識はいいと思うのです。フランスのように、国是として「文化で国を興す」という意識を持ち、日本より経済的にうまくいってなかったとしても、そこへは十分に予算を使っている国を目指すのはいい。

ミュージアムの経済効果は3段階で考える。第1段階は単体の収支だが、これだけだとたいていは赤字だ。ミュージアム自体やそれを目的に集まる人がもたらす消費、つまり外部経済効果も計算に入れるべきだ

街に“文化的”あるいは“楽しい”というブランドができてくると、人材が集まり、彼らを求める企業もやってくる。これを創造都市効果という

こういう観点は、たしかに重要。少なくとも、美術館・博物館の中でこういうことを言っていても誰も聞いてくれないので、外部の専門家がこういうことを言ってくれるのはありがたい。金沢や倉敷は、文化都市としてうまくやっている。そこまでの指摘はいいんだけど、例えば「ミュージアムが街を再生する」と言っても、金沢や倉敷は、そもそもはじめから文化的に死んでる街ではないですよね。21世紀美術館がなかったら金沢は「さえない街、特徴のない街」だなんて、金沢を知らない人だから言えること。その辺は残念。
で、ミュージアムの発信力を活かすために行政が考えるべきことを提言していけばよかったんだろうに、美術館・博物館の側にあれこれ現場を知らない提案を乱暴に投げるものだから、現場の人間たちには総スカンを食ってしまう。その辺はこまごま挙げる気にもならないので、最初のほうにリンクを貼ったトゥギャッターを参照ください。

行政の人たちはこういう方々の話には耳を傾けるのだから、何とか現場のこともきちんと理解してもらえるように、努力していかないといけないのだろうなぁと思うのです。ミュージアムには単体の収支では測りきれない価値があるということを知っているというだけでも、「赤字だ」「無駄だ」というばかりの政治家の皆さんよりは話してみる甲斐があると思います。(でも、今まででもいろんな現場と関わってきたはずなのにこうなのだから、難しいんでしょうかねぇ。)